猫も羽<わ>で数えましょう(旧「大塚ひかりのポポ手日記」since2004)

一切皆苦の人生、だましだまし生きてます。ネットでは、基本的にマイナスなこと、後ろ向きなことを書くスタンスですが、ごく稀にうっかり前向きなことを書いてしまう可能性もあります。

翔んで埼玉

翔んで埼玉、封切り二日目にみました。

面白かったけれど、期待が大きかったので、そこまでではないかな。

ちょっと戦闘シーンとか長すぎると思った。

と、思うのは私が神奈川県民だから、かも。

ひょうちゃん、集めてますとも!!

そのあたりの気持ちは、映画見れば分かるはず。

キャスティングは素晴らしいとは思いました。

 

その後、原作の漫画取り寄せて、きょう読みました。

映画はいろいろ変えてるところはあるけれど、ほぼこのままを実写化してる。というか、原作は三話で終わっているところをふくらませたのですね。

ちょっと長すぎるかな? と思ったところなどは原作にはまったくない箇所でした。

 

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ひょうちゃん。昔はもっとたくさんあったけど、引っ越しで捨ててしまったのが残念。古いタイプのひょうちゃんが好きです。

 

 

このマンガがすごい! comics 翔んで埼玉 (Konomanga ga Sugoi!COMICS)
 

 面白かったです。

 

ベティさん

母がニューヨークにいたころ、ベティ・プープのアニメが大人気だったそうで、

日本人の母はベティさんに似てるというので、あだ名もベティでした。

後年、母は英語を忘れないよう、ウイードさん、アグネス・ハーカーさんといったアメリカ人についたり、グレッグ英会話スクールに通ったりしていました。

そこでのあだ名というか、通り名も「ベティさん」で、母の仲間が家に来ると、母のことをベティさんと呼ぶのが、子供心に可笑しかったです。

母は、自宅で英会話教室を開きながら、センチュリー英会話スクールなどで講師もしていました。

母がニューヨークにいたのはわずか三年ていどですが、五歳から七歳という、言語を覚える上で大事な時期にいたせいか、発音はネイティブでした。

 

母はベティさんを自分と同一視していたので、母に何かプレゼントする時はベティさんのものを選んでいました。

 

下のupが母(たしかにベティさんに似てるかも)。

下右、母、伯母ら。

上左、伯母、祖母、母、伯父。

上中央、祖母とアメリカ人女性(たぶんアルマと呼ばれる、祖父の秘書的な人。アルマは戦後、未亡人となった祖母に、アメリカの物資を送ったり、色々良くしてくれたらしい)

 上右、祖母。

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ニューヨーク万博

祖母や母らがニューヨークに滞在中の1939年、ニューヨーク万博があった。

宝塚もきたらしいが、不人気であったという。

右上の写真の小さい子が母。その隣の黒いドレスが祖母。その右の少し背が高い少女が伯母。

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祖母のこと

祖母・康子のことは以前、はてなダイアリーのころに書いたことがあるが、1902年生まれの祖母は当時としては珍しく、薬学校に行き、薬剤師となった。

横須賀住まいだったため、受験生のころから新宿の太宗寺に下宿していた。

当時は下宿屋などもあまりなく、とくに女のための下宿屋はないので、寺に下宿することがふつうだったらしい。

東北出身の小出さんという女性と一緒だったといい、小出さんも薬剤師となって医者と結婚、息子さんは産婦人科の医者になった。

と、これはのちの話で、薬学校を卒業すると、祖母は薬剤師として病院勤めをするようになった。そこで好きな人もできたが、女学校時代の同級生の兄の長島信太郎が熱心にアプローチしてきたので、結婚。

日本郵船につとめる信太郎と共に戦前は上海、ニューヨークに住み、三子を生む。長女は日本、長男は上海、次女(私の母・幸子)は日本で生んだ。第四子の次男は、次女誕生から十二年後の一九四四年、信太郎の出征中に生まれたらしい。

戦後も信太郎は、民間から通訳としてかり出され、一九四六年、死んでしまう。

その後、祖母は乳飲み子を含む四人を薬剤師の資格を生かし、女手ひとつで育て、長女を除く三人を大学に進学させるのである。

 

 

母・幸子は、とりわけ1937年から1939年まで、五歳から七歳を過ごしたニューヨークが印象深かったらしく、私は小さいころから繰り返し、そこでの暮らしを聞かされた。

死んだ祖母の話によると、当時はまだ日本人学校などもなく、地元の子の行く幼稚園にいったあと、母はパブリックスクール99という学校に行っていた。

学校のあと、五歳年上の母の姉は住んでいたマンションの歩いてすぐ、坂を下る途中の絵の先生のところに行っていたという。

母が元気な頃、母が住んでいた所やその家のあったという所に行ったことがあるが、マンションはキューガーデンという所の、高台の公園墓地の前にあって、母によると改築されたのか、昔と向きが違う気がすると言っていた。

地図をもって、地元の役所のような所に行って、母がそこの役人にいろいろ聞いて、辿り着いたことを覚えている。

キューガーデンは今は違うが、1930年代頃は高級住宅地だったのだという。

コニーアイランドによく遊びに行ったそうだ。

夏休みは長く、宿題はなかったという。

死んだ祖母によると、アメリカで何より良いと思ったのは、生理用ナプキンがあったことと、道路が舗装されてたことだと言っていた。当時、生理用ナプキンは日本ではまだ売ってなくて、布の端切れや綿を当てていた。しかも着物のためノーパンだったりしたので、道に時々落ちていて汚かったらしい。

白人と黒人を一人ずつお手伝いとして雇っていたという(一人は料理担当)。

 

 

写真は一足先にニューヨークにいる祖父のもとに、秩父丸で行く祖母たち(祖父が社員なので一等船室の皆でこうして甲板で記念写真を撮っている)。

浮き輪を持ってる男の子のが母の兄。一つおいて右が母の姉。その右の小さい子が母。浮き輪の斜め右上の小柄な着物姿の女が祖母。

この中で今も生きているのは母だけである(87歳)

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お雛様

二月生まれの私ですが、二月は一年でいちばん衰弱というか、寒さで痛みが出るため、つらい季節です。

つらくなると、どうも亡き祖母のことを思い出す私。

祖母が心の支えだからでしょう。

 

 

亡き祖母から譲り受けたお雛様を今年も出しました。とても小さな木目込み人形。

祖母や幼い母たちと共に戦前、海を渡って上海やニューヨークを旅したお雛様です。

海外には大きいお雛様を持って行けないから、極小のものを持参したと聞いてます。

 

 

祖母のことを思い出して、元気を出そうと思います。

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周期

痛みは周期的にきているようです。

友達が言うには、生理がなくなっても、生理のころになると頭痛がしたり、甘いものが食べたくなることに気づいた、と。

 

私は生理不順でしたが、たしかに歯痛は一、二ヶ月に一度、一週間くらい続き、それって、そうか……と思いました。

不思議な体の仕組み。

友達によれば、生理時の不調は、巣作りの準備をして、いらついたり、鋭敏になっている、それが生理がなくなっても起きている。

幻肢痛というファントム的な痛み、いらつきで、脳に刻まれてしまっているのだ、というのがその友達の説。

 

 

脳からそれを切り離すためには、やっぱ薬とか認知療法の出番というわけだよね。

 

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ここんとこ、あまりの首の痛みに、久々にこれ、注文しました。

アクテージSN錠。以前、痛かった時に飲んでて、そこそこ効いた記憶があり、買ったやつが少し残ってて、のんだらなんとなく痛みが取れた気がしたので、追加注文です。

 

 

【第3類医薬品】アクテージSN錠 84錠 ※セルフメディケーション税制対象商品

【第3類医薬品】アクテージSN錠 84錠 ※セルフメディケーション税制対象商品

 

 

 

 

肩・首の痛み

なんなんだ!  というくらい、首と肩が痛いです。

それに伴う歯痛も……。

一週間前から右上、きょうから左上に移転。痛みは軽減してきているので、

関連痛のたぐいでしょうか。

 

 

関連痛といえば、堀ちえみが舌癌……驚きました。

口内炎もできてたのに、リウマチの薬の副作用と判断されてしまっていたんですね。

歯痛もあったのではないでしょうか。

思い出すのは十数年前、『源氏物語』の研究者が舌癌で亡くなった、そのお葬式で、奥様が、「歯が痛い痛いと言ってて、歯を治しても痛みは消えず、舌癌だったんです」とおっしゃってたこと。

 

 

痛みは、関連痛があったり、すでにない歯や脚が痛むといった、脳に記憶されてる痛みがあったり、奥深いですね。

トラウマは心だけでなくカラダにもあるんですね。

どっちも突き詰めれば脳の領域なんでしょうが。

だから、非定型歯痛などでは、脳に記憶された痛みをとるため、思考訓練や薬が必要となってくるんでしょうね。