猫も羽<わ>で数えましょう(旧「大塚ひかりのポポ手日記」since2004)

一切皆苦の人生、だましだまし生きてます。ネットでは、基本的にマイナスなこと、後ろ向きなことを書くスタンスですが、ごく稀にうっかり前向きなことを書いてしまう可能性もあります。

読者分析

私は、年に一度くらい、このブログの読者の属性やアクセス元、地域等を調べているのだが、

意外だったのは年齢別では、25〜34歳が33.50%で最多、次いで18〜24歳が27.50%であったことだ。

一年くらい前に見た時は、もっと高年齢であったのに、どうしたことであろう。

少なくとも現在、私の本の読者層と、ブログのそれとはかなり異なるようである。

 

 

ここ最近、思い出すのは、昔、

「本当に教養のある人というのは相手を不快にさせない」

と聞いたこと。

この基準で、私は教養人かそうでないかを判断している。

私などはまだまだだなぁ 笑

大学院に行けなかったこと

今でも覚えているのですが、大学の入学式の時、テレビ局が来ていました。

そこで取材されて、「大学に入ったら何をしたいですか」と聞かれたので、

「勉強です。好きな古典文学の背景を学びたいので、日本史の勉強をしたいと思って入りました」

と答えたら、「思いきり遊んだりはしたくないですか」と返され、

「いえ、勉強したいです」

とさらに言ったら、つまらなそうにして行ってしまいました。

当時、女子大生ということばが流行っていて、大学に入ったら遊びたいということばを期待してのインタビューだったのです。

 

大学までは片道二時間、往復四時間かかりましたが、下宿はとんでもないとのことだったので、四年間一生懸命通いました。

入学後は、よく勉強したし、成績もとても良かったです。

とくに当時、非常勤でいらしていた黒田日出男先生の授業が面白くて、「●●は『竹取物語』にもありますよね」などと言うと、「その観点は素晴らしい」と褒めて下さったものです。

( 編纂者の恣意に凄く影響される歴史書だけでなく、絵巻物や文学を素材にするという手法を当時から取り入れていた先生の授業は、
日本紀などはただかたそばぞかし”
という『源氏物語』の一節を座右の銘としていた私にはとても共感できるものでした)

 

 

進路を決める時、早稲田の地下鉄の駅で、

「あなたは大学院に行くといい。その研究分野なら京都女子大に良い先生がいらっしゃるので、紹介します」

とおっしゃっても下さった。

 

それで、母に相談すると、

「とんでもない! 女の子が早稲田なんかに行っただけでもどうかと思うのに、大学院なんかいったら嫁のもらい手がますますなくなるし、うちはそんなお金出せません。授業料も生活費もすべて自分で出すならともかく、働いてうちにもお金を入れてもらいたいくらいなのに。京都とかは絶対にゆるさない。早稲田の院だってとんでもないのに」

と言われてしまいました。

(大学入学の際、上智、早稲田の二校で迷っていました。父がプロテスタント信者で、中高はカトリック校だったし、母が強く上智大学を勧めたからです。それで「早稲田なんか」ということばが出てきたのです。今なら日本史であれば上智じゃないだろうと思えるのですが……)

 

私もヘタレで、とてもそんなことはできないと諦め、出版社に入り、月々三万円ずつ家に入れていました。

最初の出版社は三ヶ月でやめ、次に入った広告宣伝の専門誌の出版社は凄く面白く(私は昔から広告に興味があって、自分で漫画を描いても、いつも広告も自作していました)、広告業界の人とたくさん知り合えて、それはそれは楽しかったのですが、一方では、古典文学を読んでは気になったことを書き出したり、系図を作ったりということは相変わらずしていたのです。

(通勤も二年間は往復四時間かけてしていましたが、さすがに疲れたので一人暮らしをしたらベラボーに楽だった。この時も凄く反対されましたが)

 

その会社はしかしやがて傾いて、別資本に買われ、社員は離散してしまい、私もその一人でした。

失業と失恋を経て、28で最初の本を出しました。

広告宣伝の専門誌の巻末では皆で「編集後記」を書いていたのですが、私の編集後記がとても面白いとのことで、何か書いてほしいと言われて、その当座はとくに何も書くこともなく、一度送ったものは没となって返ってきたのですが、26で失恋した時のことを書いたものが、28で本になったのです。

そのあとがきには、「古典に現代を発見したい」と書いてて、本文にも古典文学を引用するなどしました。

 

その後、結婚、子どもが生まれるまでのあいだ、相変わらず古典三昧の暮らしをして、二冊目の本も恋愛ものでと言われたのですが、今度こそ好きな古典文学をモチーフにしたいと思って書きました(『愛は引き目かぎ鼻ーー平成の平安化』)。

子どもが二歳になると、どうしても院に行きたいと思い、日本史ではなく、すでに仕事のモチーフにしていた日本文学の科目履修生になって母校の院に一年間通いましたが、まだ子どもが小さく、見てくれる人もいなかったので(保育園には行かせてたが、お迎えとか)通うだけでも大変でした。

そのうち歯科心身症になったりしながら(この時は、さすがに母が来て、子どもを見てくれたりしたものです。ただ私と一緒に精神不安定にもなっていましたが)、勉強と仕事は頑張って、『源氏物語』の全訳をした時は、三度の食事もパソコンの前でし、外出先は図書館のみ、友達の誘いも全部断わるなど、それはそれは忙しくて(それだけ充実してもいましたが)、一日中、調べ物やら執筆やらで気づけば五十を超え、今はもう還暦を超えてしまいました。

 

 

そうして思うのは、母はアメリカで育った割には、男尊女卑というか、アメリカは意外とマッチョな文化で、祖母に聞いても、1930年代当時から日本人は奥さんが財布を握っていることが多かったのに、アメリカ人は稼ぐ人……多くは夫が財布を握っているということだったし、母は昭和一桁生まれで、早くに父親を亡くして生活が激変して大変な思いをしたせいか、男というものに幻想を抱いていたんですね。

明治生まれの祖母のほうが薬剤師として四子を育てたこともあってか、リベラルでしたが(市川房枝さんが好きだったり)、しかし相続観とか根本では古い明治の人でした。

そして母は、父の顔が好きで結婚したと言っていましたが、父を下に見て威張りながらも、男に物凄く期待し、性差を意識し、

「女の子なんだから」

と二言目には言っていた。

 

 

院など出ていなくても、これだけ勉強好きで、日本史学はともかく、日本の古典文学ならひとりで読んで、図表を作ったりしていればいいんだ……と私は思っていたけれど、そもそもこんなに勉強したくて大学に入ったような私が、院に進まず、私の世代は勉強好きだったり余裕がある人でなければ院には行けなかったけれど、最近の若い人は就職がダメで院に行く人もいるそうなので、あのころの私はほんとに可哀想だったなぁと思うし、

今現在にしても、人を肩書きで判断する人間があふれていることを思うと、色々とつらい思いになることも多々あります。

 

 

愚痴ですね〜〜。

こうして書いてみても、ヘタレですね私……。

まぁ今思えば、院にいってたら、あのころの物凄い勢いのあった広告業界を間近に知ることもできず(それはもう凄かったです)、夫とも出会えなかったわけで、これはこれで良しとすべきであろうとも一方では思っています(少し負け惜しみ)。

 

 

 

www.kinokuniya.co.jp

 

 

祖母、伯母、母の思い出話

祖父が日本郵船に勤めていたために、戦前、上海とNYで、祖父たちは暮らしていました。しかし、祖父が1946年に死んで、一家の運命は激変したため、この戦前の思い出が理想化されたのでしょう、母や伯母は二言目にはNYは良かったと言っていました。

明治生まれの祖母だけは、「今が一番」と言う前向きな人でしたが。

私が日本の古典文学にはまったのは、あまりにも「アメリカは良かった」と母が言ってばかりだったからというのが大きいです。

それが最大の理由です。

 

 

1939年NY。

飛行機の試乗前の写真です。中央の小さい女の子が故母。一人おいて右が故伯父。母の後ろが故伯母。左の小柄な着物女性が祖母。後列左から三番目の眼鏡が祖父。祖父は7年後、戦後処理の通訳としていったボルネオでマラリアにかかり死去。祖母は45年誕生の叔父含め四子を女手一つで育てました。

 

秩父丸。たぶん1937年の写真だろうか。これで三週間位かけて西海岸へ行き、そこから大陸横断鉄道で三泊くらいかして東海岸へ。当時、一等客船の人たちはこんなふうに記念写真を撮ったのです(帰りは日枝丸と聞いてます)

 

写真はNYにもすっかり馴染んだ祖母(右から二番目の小柄な女性)。郵船の奥様連中と一緒に。

母のアルバムを見ていると、すでに大人になっていた祖母はともかく、まだ幼かった母や

その兄姉が、戦前のこの暮らしと、戦後の母子家庭とのギャップにおかしくなったとしても、不思議はないような気はしなくはないです。

 

 

 

 

Twitterから学んだこと 

いいねも自分ルールでダメなら差別であるという言い分、腐という一般的に分かる表現ももっと差別的でない言い方があると、あたかも差別であるかの物言い。

すべては自分たちルールで世界が回っていると考えて、

人の考えも聞かない、本も読もうとしない、対話を試みても、人を見下した無礼な態度で、相手のメンタルをつぶしてくる。

 

これはそれぞれの立場の人の意見に耳を傾けよう、多様性を認めようとする寛容性とは真逆の姿勢で、マイノリティの権利を守ろうとする姿勢とは全く違う。

それこそ人をレッテル貼りして差別につなげる姿勢。

物凄いタコ壷、ムラ社会での集団リンチ……ネットという現代的な場所で、前近代の悪い部分が展開されている。

つまりこうしたことは、ネットのない昔から絶対あったはずで、ただ、今は「集団」の中に不特定多数の有象無象がいて、数が膨らんでいるというのが違いか。

ほんとうに、よってたかって、これでもかこれでもかと、襲いかかって来ましたからね有象無象が。

 

私をたたいて、どんな差別が解消されますか。

どんな社会的意義がありますか。

フリーでやっている、しがない古典エッセイストをたたいて、楽しいですか(彼らは、だからこそ、やっているふしもあります。反撃しても大したことがない相手だと。要するに、なめているんですよ)。

一言で言えば、今回のことは、崇高な思想も、差別との戦いもへったくれもない、単なる「弱い者いじめ」です。

 

 

 

火のない所に油をまいて、火を付けて燃えあがらせるというようなことが、あるんだな、と。

 

 

 

芝崎さんも書いてるけど、これじゃあ戦争もなくならないわけだ。

しかし、思わぬ人が助けてもくれて、色々な人の側面を見たことだった。

 

発端はこれ。ここから集団リンチが始まった。ここの44の引用リプを辿っていくと、最古から二番目の人のツイート以降、ひどくなって、各方面からの二次加害、三次加害……へと燃え広がったのだった(引用リプはTwitterにログインしていないと見られない)。

 

 

「どろあし」「せっぱつまりこ@セゾンのくらし大研究さんで執筆始めました」というのもひどかった。地方差別って絶対、別の人と勘違いしてるし。

本当に、言ってることが雑。

↓↓



私はこの人たちのことを絶対忘れない。

実名で言ってきた人たちよりも、こうしたおかしなハンドルネームで姿を隠しながら叩いてくる人たちのほうがずっと卑怯だからです。

こうした人たちは、彼らにとってのインフルエンサーが誰かに批判的なことを言うと、その尻馬に乗って、ここぞとばかり攻撃してくるのですね。

ほんとうに、よく見ず知らずの人のことをそこまで悪し様に言えるものです。

今回のことで、私はいささか人間不信になりました。

同時に、ちゃんと見ていてくれる人は見ていてくれるのだ、ということも分かったので、それはとても良かったのですが。

トラウマというのか、これらの輩に投げつけられたことばが、ふと頭に浮かんで、どす黒い気持ちになることが凄くあります。

言ったほう、いじめたほうは、忘れても、やられたほうは決して忘れることはないのです。

 

あまりにひどい嘘と名誉毀損……本を読むガキンチョ、こたつヘビ、どろあし、せっぱつまりこ他

自分のツイッターには次々と通知やらおかしなツイートが届くので、ログアウトしていましたが、

豊崎由美さんとか、芝崎みゆきさんとか、面識のある方のツイッターでは、元気のもらえるツイートが多いので、ログアウト状態で、今朝見ていたら、あまりにもひどい嘘と名誉毀損のツイートを見つけて、ショックを受けています。

「本を読むガキンチョ」という人が、こんなひどいツイートをしていました。
私が本が売れないのに永遠に本が出せるのは、若い頃、男性編集者と毎晩デートしていたからとかいうのです。
もちろん、そんな事実は、一切ありません。

そもそも私の本の編集者はほとんど女性。

女性だとしても、毎晩デートとか、酒も飲めない私があり得ない。

それに売れてないわけでもありません。

 

これはまったくの事実無根の悪質な虚偽によるセクハラ誹謗中傷なので、
https://twitter.com/bookkukbook/status/1649809596389916672

いま、版元にも相談しました。

弁護士さんを紹介してもらおうと考えています。

まずはこの人の本名や登録事項などの開示請求、そのあと、賠償請求になると思います。

 

 

しかしなんでこんな嘘をついてまで、人をおとしめて、何が楽しいのか。

これは本当に看過できないことです。

 

 

 

 

2023年16時35分、私は当人に削除要請しました。

 

これで動きがなければ、次のステージ。

 

20時前、削除確認。

しかし今度は「こたつヘビ」が私にこんなリプを飛ばしてきたのを発見したので、版元に相談。

あたかも今まで、ポリコレ棒とやらを私が振り回して、今度はそれで殴られたかのような物言いだが、事実無根のツイートに反論しただけである。

そして、今回は完全に私は被害者なのだから、被害者面もなにもなかろう。



 

21時15分。

ブロックは好きじゃないけど、今後は匿名の変な奴の相手をいちいちしていたら疲れるので、版元に報告・相談しつつ、ブロックすることにしよう。

 

1「こたつヘビ」ブロック。

 

 

この、「どろあし」と「せっぱつまりこ@セゾンのくらし大研究さんで執筆始めました」もひどかったですね。すべてスクショは撮ってあります。

せっぱつまりこ、私が地方差別しているかのようなこと書いていますが、それ絶対別の人と混同してますね。

これも名誉毀損じゃないですかね。

↓↓

 

 


わずか

三時間で、70もリツイートされ、163もいいねされてるってのも、すごいですねぇ。

 

 

 

 

 

その他、ここぞとばかり私を叩いてきた人々がたくさんいました。

それを見た時はこの三十年以上、勉強して頑張ってきた日々は何だったのかと、すべてが崩れ落ちるような感覚にも襲われました。

けれど、かばってくれた、私の本に救われたという人たちもそれ以上に大勢いてくれて、今回のことでその声が私に届いたのが、ほんとうに心強かったし、書いていて良かったと思わせてくれました。

だとしても、あまりにもひどいマイナスのことばの数々は、決して忘れることはできません。

日経書評

日経でかいた『ミライの源氏物語』の書評、きょう掲載されました。

この仕事は、山崎さんとのイベントの依頼のあとにきたもので、新聞者の人が、

「良い本なんですよ」

「すでにその本もってます」

という感じで。

 

 

これまで私、山崎さんと面識もなければ、仕事したこともないんですよ。

なのに、ポプラ社経由で山崎さんからこの御本頂いて、イベントの依頼があり、さらに何の関係もない日経新聞からよりによってこの本の書評がくるとは。

なんという偶然か、引き寄せの法則? と思ってしまいました。

 

テレビでも紹介されたようで、売れて、増刷・入荷が間に合わないのでしょうか。

早く、入荷しますように。

 

 

 

ツイッターはログアウト

恐怖を覚えるほどのおびただしいツイッターの通知やら、心を深くえぐるようなことばをぶつけられるやら(62年間生きてきて、他人にこれほど屈辱的で無礼なことばをぶつけられたのは初めてです)、面識のある知り合いが話しかけてくれたのに対して「いいね」つけただけで、そこに差別的な文言があったとかで、「いいね」をつけている私は差別に賛同しているとか(ふつう、親切なツイートには「いいね」しませんか。そんな説明しなきゃならないだけでも情けない。しかもいいね取り消したあともまだその「差別だ」ツイートが残っているせいで、攻撃される)で、

とにかくその通知を見るだけでも怖くてストレスで、

仕事も手につかず、

日常生活にも支障をきたしているので、

ツイッターはログアウトした。

だから、DMもさいご、きてたのを読んだけれど、お返事などはできないでいる。

とてもあたたかいDMだったのに、すみません。

また、応援して下さる方も増えていて、とてもありがたいのに、

どうしてもマイナスなことばが心に刻まれてしまう今は。

 

 

また、私が片っ端からブロックしているかのように言ってる人もいたが、

私、これまでブロックってしたことないのですが。

昔、一回くらいしたことあるかもしれないけれど、

今は、ブロックしろって言われても、あんまりブロックということが好きではないので、していない。

なんでそんな嘘をつくのか謎。

その後、ブロック先輩からおかしな奴は軒並みブロックで良しとアドバイス頂いて、そのようにブロックするようにしたら、快適です。そのような認識に至ったブロック先輩のこれまでの茨の道を思って、慄然としました。同時に、今までブロックせずに済んでいた幸運を思いました……。

 

 

私が地方を差別しているとか言ってた人もいたけれど、

誰かと勘違いしているのか。

とにかく批判が雑過ぎて、しかも昔なら一対一で済んでいたようなことが、集団化しているから、怖い。

 

古典をバカにしてるとかゲスだとか、私に対して最も口汚く罵っていた「どろあし」という人は今は鍵をかけてしまっているようだ(友達が教えてくれた)

 

 

本当に本当に疲れた。

源氏物語』の桐壺更衣の気持ちとか、今回のことで、また色々と考えた。

とにかく、この悔しさは、仕事で返すこと!

それのみ!!

源氏物語』の藤壺が、冷泉帝を出産する際、“命長くも”(これから先、長く生きなければ)と思うのはつらいことではあるが、ライバルの弘徽殿が、呪わしいことを言っていると耳にしたので、もしも自分が“空しく”なった(死んだ)と聞いたら物笑いになると、

“思<おぼ>しつよりて”(そう思うことによって、気を強く持って)

少しずつ快方に向かったという(「紅葉賀」巻)、そのくだりを思い出す。

 

 

やっぱり『源氏物語』は、いいわ。

 

 

 

 

 

BLの本の見本もきました。

白内障の手術

をすることになりました。

白内障は年相応で、ひどくはないのですが、「閉塞隅角」という目の形であることが分かり、この目の人は、急性緑内障になる可能性がある、急性緑内障になって、放置すると、早くて一晩、二、三日で失明するという、現在、日本の失明理由のナンバーワンである怖いものなのです。

閉塞隅角の人がみんな急性緑内障になるわけではありませんが、閉塞隅角でない人は絶対に急性緑内障にはならないのだそうです。

数%とはいえ、眼圧が上がれば、水の逃げ場がなくなって、悲惨なことになるそうです。

私の目は「爆弾を抱えているようなもの」なんだとか……。

そもそも、精神薬のほとんどはこの症状を悪化させるし、アレルギーの薬もダメ、去年処方されたニトログリセリンも禁忌だそうで、そうした薬を安心して服用するためにも、手術を決意しました。

 

ただ手術をしてもらう病院はとても混んでいるので、手術は数ヶ月先になると思います。

私の都合を考えつつも、医者の都合最優先で手術日は決められるようです。

 

 

遠視の強い五十代以上の女性に多いそうです。

失明して、仕事ができなくなるのはもとより、本が読めなくなるのは困ります。

それ以前に失明は困ります。

見つかって、ラッキーと言えます。

 

 

 

 

 

 

 

 

複雑な思い

母が死んでしばらく経つと、いかに母が自分本位に子に接していたか、

子の独立心を養うというような観点はまるでなく、

毒になる親であったか、

子を守るというようなこともあまり考えていなかったのだ、

というようなことが明らかになってくる。

 

 

私が心を病んで、にっちもさっちもいかなくなって、毎日のように母に電話をしていた時には、「いっそ死んでくれたら」と母が言っていると、バカ正直な父が私に漏らしてしまったこともある。

 

母は、何にせよマイナス思考の人で、私が子育てでパニックになっていた時などは、ほんの一瞬のことであるにもかかわらず、

「子どもを生んだのは間違いだったわね」

と、決めつけた。

 

 

 

 

今思うと、

「母は結局、子どもの身になって考えるということができない人だったのだ」

と痛感する。

とくに娘の私のことは、自分と同一視しているというか、付属物のように思っていたのか、何を言っても構わない、傷つかないと思っていたふしがある。

 

 

一方で、長年過ごしていただけに、当然ながら、ふと、たまらなく恋しい思いが湧いてくることもある。

親子というのは悪いことばかりではない。

今でも無性に母に電話したくなる折々がある。

しかし、もう子が大人になったら、他人でいいのではないか。とも思う。

 

 

 

 

 

死に場所を探して旅をしていた……。

そんなことばに癒やされる。