猫も羽<わ>で数えましょう(旧「大塚ひかりのポポ手日記」since2004)

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父の指輪

maonima2007-08-18

 父の指輪
 七十七歳の父は最寄りの駅前の紅茶の専門喫茶店で、毎週、折り紙を教えているそうだ。最寄りといっても歩いて十分はかかるし、山坂や階段の多い道である。私などは、実家に帰るたびに歩くだけでしんどい。その先に、脳卒中で何度も倒れて、まだらぼけした、体の不自由な母が待っていると思うとよけいそんな気持ちになるのだが、父はこの母と二人で暮らし、内科、心療内科、眼科、脳外科と、複数通っている病院にも付き添っている。
 が、四年前、母が脳卒中で倒れた時は、その直前に母が接触事故に遭ったということもあって、父はその後遺症だろうと思い、また、母が「救急車は大げさでイヤだから呼ばないでくれ」(接触事故の時、救急車のあまりの大音量に懲りて、母はかたくなに救急車を拒んだ)と言い張ったので、なんと五時間も放置してしまい、無職で家にいた弟が東京から駆けつけて、その車で病院に運んだといういきさつがある。
 脳卒中脳梗塞は倒れて二、三時間が勝負という。母は病院に着いた時には五時間以上経っていた。右脳に五センチの出血があり、そこは皆、破壊された。車イスになるだろうと医者には言われ、しかし、なんとかそれは免れたものの、倒れる前とは別人のように性格も大ざっぱになり、鋭さもなくなった。その後、二回ほど軽く倒れたが、そのたびに衰弱して、今は数字は一切わからずに、ただ年に数回、孫に得意の英語を教えることを生きがいにして、孫の教科書に合った教材を買いあさり、ながめている毎日だ。
 父がすぐに救急車を呼んでいれば……と家族は思ったし、父も当初は思ったのだろう。ずいぶん落ち込んで、
「今は後悔しても仕方ないから、できることをやる。見舞いは通勤だと思ってやる」
と言って往復一時間半くらいかかる病院へ、入院していた三ヶ月間、毎日、通っていた。まぁ往復三時間かけて、何十年も通勤していたからそのくらいはヘノカッパなのだろう。元来が心身共に頑健な人で、三十代に胃潰瘍の手術をした以外は、六十代で前立腺の病気になったていどで、今は病院といえば年に数回歯医者に通うていどらしい。精神的にも、「鈍感力」というと、真っ先に父が思い浮かぶくらいの、打たれづよい人である。
 母の退院後は、食事の支度もできる範囲でやっているが、無理はしない性格なのか、先日、見たところでは、ご飯を炊いてみそ汁を作り、あとはどこかで買った総菜や、頂き物の食べ物を摂取しているだけ。昔のブリッジ仲間や、定年後、始めた卓球の仲間、折り紙を教えている喫茶店の人に、
「妻を介護している」
と触れ回っては同情を買い、野菜や総菜を多方面から山ほどもらっているようだ。昨日、久しぶりに遊びに行った際も、隣の奥さんが「カニを頂いたのでどうぞ。もう茹でてあります」とカニと素麺をセットでくれた。
 こう書くと、ほんとにいい人のように見えるが、父は夫としては良くても、父としてはダメだった。子供っぽくてくどい。反抗すると、大きな声で怒鳴り、一度は手が飛んできたこともあった。手が飛ばないまでも、寸止めで脅されたことは何度もある。母も若い頃はバカにして「パパのいいところは顔だけ」などと罵っていたこともある。
 今も基本の性格は変わっていなくて、興味もない半導体の話を、夫がちょっとお愛想で相づちをうったら、延々と始めたり、私に対しては、
「そこを離れる時には電気を消せよ」と言うので、
「分かってる」と言うと、
「お母さんは消さないからな」
「私はお母さんじゃないから」
「似たようなもんだ」と、言い争いになり、私もうっかり者で、手元の電気は消したものの、上の電気は消し忘れると、
「やっぱり消しとらんな」
と聞こえよがしにつぶやいている。米一つ炊くのにもウンチクが始まり、母が通っている内科の看護婦にも折り紙を配っていて、
「欲しいと言うから配っている。みんな喜んでくれる」
と自慢げに言うのだが、きっかけはぼけかけた母が父の作った折り紙の指輪を病院にはめて行った所、看護婦がお世辞で「わぁいいですね」「作ってあげましょうか」「欲しい欲しい」と言ったところから、「では、作ってあげましょう」ということになったらしい。
 看護婦の中には孫や子供のために本気で欲しいと思った人もいるだろうが、どう考えても、皆が皆、欲しがっているとは思えないのに、父は皆が心底、折り紙の指輪を欲しがっていると信じて、看護婦全員に配っているのである。
 父の折り紙自慢は昔からで、私の通っていた幼稚園には、頼まれてもいないのに、六段飾りの折り紙のお雛さまを折って「寄贈」し、うちの子の保育園にもまた同じものを作って寄贈した。
 今の紅茶専門の喫茶店での折り紙教室にしたって、どんなきっかけで始めたかは知れないし、聞くとくどくど自慢げに何十分もその話になるのは目に見えているから聞いていないが、想像するに、父のことだから、喫茶店に折り紙を持参して折っていたのだろう。それを店主か誰かが「折り紙でそんなものが作れるんですか」などと言って、二、三人が集まってきて、物好きな一人が「どうやって折るのかな」などと言ったのだろう。で、「教えてあげましょう」ということになり、通っているうち、物好きが集まって、週に一回だか月に何回だか、そこで「教える」というようなことになったのだと思う。
 店主にしてみれば、少なくとも父は定期的に客として来てくれるし、昨日なども私たちが行くというのでマドレーヌ六個も買っているし、いいカモである。また、物好きな折り紙ファンが固定客ともなってくれるので、これまた大歓迎だろう。
 帰り際、父はうちの子にも折り紙を押し付けていた。うちの子は私の目から見ると嬉しくなさそうに受け取っていた。玄関には「折り紙の弟子が作ってくれた」という作品もいくつか飾ってあったが、弟子の作品のほうが創意工夫に富んでいた。
 帰ってきて、父がくれた折り紙の蓋付き八角箱をあけると、うちの家族の人数分というつもりなのか。赤、青、緑の色違いの光沢紙で折った、蝶々の指輪が三個入っていた。(大塚ひかり)
 
 あ〜、『源氏』訳終わったら、こういうこともたくさん書きたい。好きな絵も描きたいし、小説も書きたい。あれもしたこれもしたいと、試験前の子供のように、やりたいことがつのってくる今日この頃だ。