猫も羽<わ>で数えましょう(旧「大塚ひかりのポポ手日記」since2004)

一切皆苦の人生、だましだまし生きてます。ネットでは、基本的にマイナスなこと、後ろ向きなことを書くスタンスですが、ごく稀にうっかり前向きなことを書いてしまう可能性もあります。

八&画家志望だった頃(笑)

maonima2007-09-26

 18日の日記http://d.hatena.ne.jp/maonima/edit?date=20070918に書いたように、いま『源氏』なので昔の絵を載せてみた。
 これらの絵はちょっとアレだが、思えば私は小さい頃は、作文よりいつも絵を褒められていた。
 自宅から三十秒のところに「青少年の家」があって、ブーフーウーの人形劇の人形を作っていた土方さんがそこで、ひとり月千円とかそんな破格の値段で絵を教えていたのだが、小学一年生の頃からずっと習っていて、私はいつも、
「あなたの絵は個性的だね。いいね」
と褒められていた。
 素直だった私は作文にも「将来の夢は画家になること」と書いていた。
 ちなみに土方さんの家は道を挟んだ隣の隣にあった。小学三年か、四年になる頃には、土方さんが忙しくなったかして絵を教えるのをやめてしまったので、少し遠くの北尾さんという芸大生の家に習いに行った。
 ここでも私は「皆に許された者」として振る舞っていた。いっぱしの芸術家気取りでひとり勝手にアトリエの水回りを掃除したりする私を、北尾さんは、叱りもせず見守ってくれた。優しい人だった。
 彼女は北尾医院という内科医の娘で、芸大の大学院に進んだが、すぐに結婚して名字が変わり、引っ越していって、絵を習うことを私はそこでやめた。子供だったので何という名になったのかは知れないが、今はどうしていることだろう。
 中学高校は美術部で、顧問の先生には「美大に行くよう」勧められていた。美大に行ったらどうなっていたのだろうか。今も時々思うが、どうにもなってはいまい。高校に上がった頃には「自分には絵の才能はない。無理だ」と気づいて、あきらめていた。けれど漫画家になりたいという思いはかなりのちのちまで引きずっていたものだ。


 長じて失恋と失業のダブルパンチに見舞われた二十六の頃、私はライターをしてアパート代や生活費を捻出していたが、実はイラストの仕事もしていた。その頃、今は亡き従姉の紹介で、マガジンハウスの澤田康彦さんに出あい、「鳩よ!」のライターの仕事を回してもらったのだが、ついでにイラストも描いたりしていた。やがて文章の仕事が主になってしまったが、『源氏』が終わったら、ふつうに趣味としてまた絵も描きたいものだ。って実はイタズラ描きなら今も子供と一緒にしょっちゅう描いているんだが。そうじゃなくてもっと手の込んだものを、ね。

 なーんて、試験前の子供のように、『源氏』が終わったらやりたいことを色々思い描いている。それを頼みに生き長らえているというか。それまでは、地を這ってでも私は生きていこうと思うんである。あとは知らない(ってわけにもいくまいな)。