猫も羽<わ>で数えましょう(旧「大塚ひかりのポポ手日記」since2004)

一切皆苦の人生、だましだまし生きてます。ネットでは、基本的にマイナスなこと、後ろ向きなことを書くスタンスですが、ごく稀にうっかり前向きなことを書いてしまう可能性もあります。

物語のモデル問題

(以上、略。宇治十帖の「東屋」までいったらup。それまでは『源氏』に専念すること!!!)
 私は若い頃は小説を書きたいと思ったことはあまりなかった。小さい頃から画家になりたくて、中学過ぎたら漫画家になりたいと思うようになった。しかし、後年、
「ぴっかりちゃんの小説は面白かったね」
と言われて気がついた。中高の女子校時代、生徒と教師(シスターとのレズものもあり)をモデルにしたエロ小説を書いていて、皆に回し読みをさせていたんだった。当時の私としては漫画がメインで、小説は息抜きのつもりだった。漫画は女大名と武芸者の恋を描いた『刹那』、人斬り与左が主人公の『曼珠沙華』などシリアスなものから、「ピッカボチャー帝国」「芋持ちチココ」「いちぢく先生」、当時、流行っていた「オーメン」をもじった「ブーメン」などのギャグ漫画まで手広く手がけていて、八時から九時までは勉強タイム、九時から十二時までは漫画タイム(古典タイムのことも)、十二時以降、一時に寝るまでは古典タイムと決めていた。学校は歩いて五分だったので、一時に寝ても七時間は寝れた。

 このように古典と漫画の日々を送っていた私は、忘れもしない、地理の先生(男)から、
「どうしてそんなに平安文学が好きなの? 平安時代人になりたいの? 憧れ?」
とよく聞かれたものだ。この地理の先生は川崎の海苔問屋の息子で、いかに自分の家が金持ちだったかいつも自慢していた。家には井戸がいくつもあって、従業員のほかに家には使用人がたくさんいて、子供たち一人ひとりに乳母がついていたとか。先生は、アイヌを独自に研究していたので、地理の授業はアイヌのこと、あと人口問題のことでつぶれた。私がいまだに地名に疎いのは一つにはこの先生のせいだ。先生は、受験で地理を選択する人には補習をしていた。そんな手間を自分や生徒に強いてまでアイヌの話を伝えたかったんだね、青山先生……。いまは六十過ぎてるはず。母校には定年なんてない感じだったから、いくつだとしても今も教えてると思う。八十近いシスターが英語教えていたし。


 しかし漫画家の夢は以前の日記にも書いたように諦めざるを得なかった。