猫も羽<わ>で数えましょう(旧「大塚ひかりのポポ手日記」since2004)

一切皆苦の人生、だましだまし生きてます。ネットでは、基本的にマイナスなこと、後ろ向きなことを書くスタンスですが、ごく稀にうっかり前向きなことを書いてしまう可能性もあります。

七絃琴のつどい&光源氏が愛した王朝ブランド品

 今日は「シンポジウム・源氏物語と七絃琴」を聞きに駿河台に行った。
 『源氏物語』の訳をしていて、何が難しいって、音楽に関して、とりわけ今は廃れてしまった「琴(きん)の琴」と呼ばれる七絃琴や、六絃の「和琴」(あづま琴)に関する奏法だの何やらが、イメージが湧かなくて心底、困っていた。
 七絃琴の実演もあるというので行ってみたら、想像以上に勉強になった。
 発表は笹生美貴子さんの「明石入道と「琴」と「夢」……書かれざる秘史……」、
 そして岡部明日香さんの「源氏物語の琴と平安漢詩文の琴……詠琴詩との比較から……」、
 そのあと、伏見无家さんの七絃琴の演奏、
 最後に討議。


 発表では、七絃琴の『源氏物語』での描かれ方がいかに特殊なものであるか、文人との琴の関係などが聞けて良かったし、七絃琴の演奏では、その音の小ささ、かさの小ささに、なるほど可愛い子供のような女三の宮が弾くにふさわしい楽器だなぁと実感できた。琴の琴は『源氏物語』では皇統にある者だけが弾くことになっているからというのもあるのだが、それ以上に、私は女三の宮の体格を思うと、なるほどなーと改めて。光源氏は、
「琴の琴は、生半可に習うと不幸になる」
みたいなことを「若菜下」で言ってるが、そんなものを実の娘や紫の上には習わせずに女三の宮に教えたのもなんだかなあ。といっても女三の宮はもともと父朱雀院から琴を習ったわけで、光源氏の愛を試すため、
「娘の琴が聞いてみたい」
と言い出したのは朱雀院。それで仕方なく源氏は琴の猛特訓をせざるを得なくなったんだから、どうしようもない。こうして源氏の愛が女三の宮に傾きかけた直後、宮が不義を犯して出家するという展開を思うと、『源氏物語』を読んだら、琴の琴なんて習うの、嫌になる人続出だろうにと思った。琴の琴がその後、廃れたのは奏法が難しいのもさることながら、『源氏』で作られたイメージのせいもあったんじゃないかなー。

 
 琴の琴は『源氏』研究者もそれ以外の人も習っている人が多いようだが、私は習うとしたら和琴がいいなぁ。
 などと勝手なことを思った。


 会場には色んな人が来ていて、討議の際、発言した豊永聡美さんという人は東京音大の先生で、『中世の天皇と音楽』という本を出しているのだが、この人が「皇位継承者に伝えられているのは七絃琴ではなく和琴です」と発言したり、面白かった。
 また、関河さんという同志社大の院生は、昔から横笛を吹いてて邦楽をしていて、『源氏物語』も読んでいた。それで会社を定年(か、その寸前?)に辞めてから院生になって勉強をしているという方で、この方には「五六の撥」のことや「輪の手」のことを教えて頂けて嬉しかった。
 岡部明日香さんには、メールで琴の琴を弾くと不幸になるという話が載ってる本のことも教えて頂き、感激でいっぱいだ。

 また、懇親会で独自の恋愛論というか、人生論を展開していた中丸さんも面白い人だった。ちょっとキチガイじみた感じの人でもあるが、こういう人、私の周りには多いので、興味深かった。二十八でこういう考えに達しているというのも、なかなか凄い。(と、書いても、読んでる人はなんのことやら分かるまいが、中丸さんは「プリンスたかしの日々」だか「プリンスたかしの何とか」ってブログを書いてるそうだから、興味のある人は探すがいい。私は探せなかった……その後、ご本人等から正式名を教えて頂いたが、「このままでいい」とのことなので、あえて訂正は致しません)。 

★ちなみに私の「キチガイ」は英語のcrazyにそういう意味があるのと同じで、凄い!という誉め言葉でもあります。かつてある人が、初めて何かの展覧会のポスターを作った時、展覧会の主の外人に「クレイジーと言われて凄く嬉しかった」と言っていた、そのクレイジーです。


★★河添房江さんから『光源氏が愛した王朝ブランド品』(角川書店、本体1500円)
 「平安のフレグランス  シャネルの五番」とか、「舶来ペットの功罪」とか、面白そう。『源氏物語』ほど、猫のエロスを描ききった物語はないよなぁと思って、私も十年位前、猟奇事件と結びつけて、講談社提供のネットで書いたことがあった。