猫も羽<わ>で数えましょう(旧「大塚ひかりのポポ手日記」since2004)

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『源氏物語』全訳の動機を聞かれたから言うけれど

源氏物語』千年紀に全訳を出せるというのは、千載一遇の幸運なのだろう。
とてもとてもありがたい。
おかげで取材がきたりするのも、ほんとにありがたい。
心からそう思う。
そう思うが、
取材で、
「『源氏物語』全訳をなぜやろうと思ったんですか?」
と聞かれると、
「仕事がきたから」
と言うしかないの、トホホなことに。
 やろうと思って出せるわけでもないし、当時の私は『蜻蛉日記』の全訳を出したいなどとは思っていても、長大な『源氏物語』の全訳をすぐに出すなど、想像もしていなかった。
源氏物語』の千年紀のことも頭になかった。


仕事がきた四年前、編集者は千年紀の「せ」の字も言っておらず、私も考えていなかった。
「来年、筑摩文庫の何周年記念かがあって、文庫で『源氏物語』の抄訳かなんかを出せれば」
という感じだった。
当時、その編集者が、私の『源氏の男はみんなサイテー』を文庫化してくれて、その中にある訳がいいから、いっそもっと訳してみないかというような話だったのである。
 仕事がきて、
「抄訳か全訳かどうします」
と言うから、
「やるなら全訳」
と答えた。
 抄訳だと、恣意的に『源氏物語』の好きな箇所だけ取り上げることになって、今まで私がやってきた『源氏の男はみんなサイテー』だとか『カラダで感じる源氏物語』だとか、テーマに添って『源氏』を取り上げる仕事とさして違わないと思ったのだ。
また、私自身が大人向けの抄訳などというものを、まるで読む気がしないからという理由もあった。小学生向けにイラスト入りで一冊にまとめるとかそういうのならいいが、三分冊くらいのハンパな量では、やる意味は、感じなかった。



 やるなら全訳という思いだけはあったが、
「まぁ八年とか十年とかかけて、五十歳過ぎに出せれば」
くらいに構えて、のんびり訳していたのである。
 それが去年の初めになって、
「来年は千年紀なので、ぜひそれにあわせて出したい」
と編集者に言われ、急遽、大変なことになってしまったのだが、あとの祭。
 朝から晩まで、食事もパソコンの前で摂って(今はそこまでの状況は脱したが)、外に出るのはシバの散歩の時のみ。そのついでに図書館も買い物も済ませるという日々になった。
 私は原文と自分の訳文を音読しながら、文字数も指折り数えて、ほぼ同じ長さになるように訳しているのだが、一言一句訳すのはそれはそれは難儀である。
とにかく「分からない」ままにしておくわけにはいかず、しかし「分からない」「曖昧」なところが多々あって、今まで読んだことのない学術書を読み、音楽関係のシンポジウムなどに足を運んで、この年になって大変な勉強をさせてもらった。




源氏物語』の全訳はこのように大変な作業である。よく言われるように目もすっかりダメになった。
この数年で視力ががくんと落ちて、老眼が1・0から3・0に進み、裸眼では新聞も読めない。
が、ここまでかつてないほど勉強になるんだし、そんなことはどうでもいいのだ。
それに『源氏物語』の全訳をしていると言うと、
「それは大変なことだ」と、皆、言ってくださるのだが……。
しかし正直、文字による全訳だけがどうしてそんなに特別扱いされるのか、今一つ納得できないとこもあったりする。



源氏物語』はたしかに凄い物語だけど、今の小説みたいに黙読で読まれていたというより、音読もされていたわけで、むしろそっちが正当な物語の楽しまれ方だったし、現代の小説と違って、ドラマであり物語であり、恋愛や歌詠みに役立つ実用書であり、学問の宝庫であり(それはそれは大変な)、といった「大きな物語」なんだから、小説家だけでなく、学者や漫画家や脚本家など、いろんな人がいろんな形で、今もこれからも文字だけでなく、漫画やらドラマやらで「訳」されて当然の物語なのだ。
それが作家の全訳だけ、なんで騒がれるのだろうって頭が、まずある。
まぁ私はエッセイストで、今回は作家の全訳じゃあないわけだけど、京都弁の全訳だってあるし。
なのに、
谷崎潤一郎円地文子橋本治瀬戸内寂聴さんに次ぐ、たいへんなことをしている」
とか言われたりしたら、おびえるではないか。私としては、
「いや、仕事がきたから受けただけなんですけど。それに、私としては、江川達也の次にやってることが、むしろ大変なプレッシャーなんすけど」
とか思ってしまうのだ。



瀬戸内寂聴さんの訳が現代の決定版といわれる中、さらに全訳を出されるというのは、どういう動機からでしょう」
とか質問された日には、
「そうだったの?」とびっくりだよ。
 私は数ある全訳の中では、瀬戸内さんの訳が凄いと思ってて、
「作家なのに、よくぞあそこまで逐語訳に徹した。いろいろ自分の言葉を付け加えたいことはあっただろうに、よくぞ抑えつつ、しかも『源氏物語』が分かったと思えるように書けたものだ」
と、その力技を尊敬している。
学者などのあいだでは橋本訳の評価が高いのだが、あれは案外、『源氏物語』に浸った作家なら書こうと思えば書けると思うのだ。作家なんだし。書けない私がこんなことを言うのは恐れ多い事を百も承知で言うと。
それに、『源氏物語』は、主人公の光源氏をも「神の視線」で俯瞰して、ぶざまな姿を描いたりするから恐ろしいのに、橋本源氏は光源氏がかっこ良過ぎる。
 というように、瀬戸内源氏は『源氏物語』の訳としては凄いなとは思っていたのだが、それを「決定版」とは夢にも思っていなかったんで、言われてびっくりだった。

源氏物語』の訳はこれからも、いろんな形でどんどん出て行くのは間違いないのにね。