猫も羽<わ>で数えましょう(旧「大塚ひかりのポポ手日記」since2004)

一切皆苦の人生、だましだまし生きてます。ネットでは、基本的にマイナスなこと、後ろ向きなことを書くスタンスですが、ごく稀にうっかり前向きなことを書いてしまう可能性もあります。

島村麻里

すでに死んだ人の書いたものが好きだ。
生きている人だと、知らない人でも、顔だとか、言動だとかが、雑誌やテレビや新聞から漏れてきて、文をよんでいても、
「こういう顔の、こんなことを言う人が」
という先入観で見てしまう。
それに、死んだ人のほうが、安心して、思い入れできるから。
古典は、何百年もの歳月に濾されているから、ずぼらな私としては当たり外れがないという理由で読んでるところも大きいが、
書いてる人が死んでるという理由も一つにはあるのかもしれない。
しかしたまに、
「ああ、この人が生きていたら、逢いたかったのに」
と感じるような人もいるけれど、『源氏物語』を読んでも紫式部に会いたいとはあまり思わない。




 島村麻里の本は読んだことがなかった。
 でもこないだ彼女が51でくも膜下出血で亡くなった記事をみて、住んでる場所も案外、近かったことを知り、なんだか興味がわいて、
『うつ歴十年、色恋妄想』
という本を読んでみた。
例によって、この時期である。
ちらっと斜め読みするつもりだったのに、
ひきこまれて全読してしまった。



うーん。
37歳にして男に棄てられ、しかもその男は彼女を棄てた直後、うんと若い女できちゃった婚をし、以来、島村さんは鬱になって、治りもせぬまま、47歳の今に至る(2004年当時)というエッセイであった。
その間、欣求男!という感じで過ごす日常が書かれている。


私は26で失恋をした時、
「これが19、20ならともかく、こんな年になって!」
と絶望し、『いつの日か別の日か』という初めての本を書いて、以来、ずっと書く仕事をしているのだが。
37で、この別れ方はもっともっと辛かったろうなぁ。
というか、島村氏の本を読むと、もっともっと辛いことが分かる。


共感したのは、彼女が小中高と女子校で、友達が同窓会で幼なじみとできちゃっても、その真似ができない! ストックがない! と悔しがるところ。
私も、小学校こそ共学だったが、中高と女子校だったせいで、過去のストックには限りがあるもんなぁ。
小中高と女子校の人は、早い時期に結婚しそびれると、こと男に関してはさみしいことになりがちなのかもなぁ。
加えてこの人、大学は上智だから、男も少ないだろうし。
それでも中村うさぎくらい突っ走れたり、酒井順子くらいクールなら、突破口もあったんだろうが。
(そういえば彼女たちも女子校出身。中村は私と同様、中高、酒井順子は島村氏と同様、小中高)。
島村氏も、中村うさぎのように、体を売ってとか、ホストを……とまでは考えるものの、踏みきれないというようなところも、共感を覚える。
ただ、男に贈り物を選ぶことが快感というのは全然理解できなかった。
その他、いろいろ共感できない点もあったが、
これを書いた本人がもうこの世の人ではないと思うと、
境遇や考え方は違えど、
なにかしみじみ我が身に迫るものがあるのだ。



お母様が50で亡くなっているので、せめて「彼女の享年以上は生きたい」とか、
48の年女の年度を迎えて、
「さあて、十二年後、次の年女ーー六十」は、
などと書いてあるのが、切ない。
こんな悲しい思いをしたせいで、寿命も縮んだんだろうなぁ。


あと、10歳のメスの柴犬と一緒に暮らしてるって書いてあるけど、その犬はいまどうしているのか。


(「あとがき」を見たら、この本の編集者、私の『いつから私は「対象外の女」』(2002年)と同じ人だった)