きのう、『源氏物語』の第一巻の三校を返し、最終的に本が歩きだしたところだ。
初めのころとはまったく方向性が変わったので三校まで見せてもらい、四校まで出してもらうことにした。
方向性が定まったというか、できあがったものも再校までのものとはトーンが違う(なので三校は初校以上の直しが入ったが)。
それは、『源氏物語』にまつわる「性愛」の読みで、ひいてはそれが『源氏物語』のあらゆる読みにつながるという考えに至ったから。
というのも『源氏物語』は、娘を東宮や天皇に入内させ、産まれた皇子を皇位につけることによって一族繁栄した、いわば「セックス政治」の時代に生まれた物語。
性愛が栄華の基盤になっていて、物語もそのことが描かれている。
つまり性愛は、政治であり、一族の命綱であり、生きる道だった。
にもかかわらず、『源氏物語』には、ダイレクトな性描写がほとんどない。
その代わり、当時の流行歌や自然や天候など、あらゆるものに託して「性」を「エロス」を、そこから生まれる「感情」を代弁させ、時に物語を牽引する「伏線」となっているということが、三校を直す過程で身にしみた。
そこを言わないから、文豪の訳は参考にならないのだと。
そして、そこが分からないと『源氏物語』の性愛はもちろん、物語そのものが分からず、楽しめない。
『源氏物語』に出てくる当時の流行歌である催馬楽はことごとく性的な意味があり、当時の人はそれをみんな分かっていた。
それが分からないと本当は『源氏物語』は楽しめないはずなのだと。
私が以前から、原文は好きなのに、文豪の訳を楽しめず、江川達也氏などの漫画を楽しめたのは、漫画では、そのへんの書かれていない部分をもなんとか解釈して絵にして書かざるを得ないからなんだ。
もしも文豪の現代語訳を楽しめる人がいるとしたら私は不思議だが、それは『源氏物語』自体がもつ「幸せとは何か」に対する真剣な追求等があるからで、また、間接的な表現の醸し出す性の、生の空気を感じるからだろうか。
しかし隠された性表現が分かったほうが断然面白いには違いなく、今までは『源氏物語』の鬱的な部分にばかり目のいっていた私だが、今になって、やっと『源氏物語』の面白さを身にしみて感じている次第である。
『源氏物語』が、時代を越えて、生き延びてきたのは、実はこんなにも性的な物語でありながら、ダイレクトにそれを言わないからという部分もあるだろう。
というような考えに基づいて、私は、『源氏物語』で引用される内外の古典は分かるものは玉台新詠から江談抄から政事要略から何からすべて原典にあたり調べ、ナビにも入れたが、とくに当時の人が誰もが知ってる風俗歌や催馬楽の解釈はしつこいほど「ひかりナビ」と称するナビゲーションで解説し、歌についてはウラのウラの意味までしつこく考えて訳した。
それによって、やっと自分の『源氏物語』を出す意義が見えてきた次第である。
九月頃は『源氏』鬱に陥っていた私だが、九月三十日の江川さんとの対談で、
「最初に大塚さんがいいと思ったのは(2001年段階。その時も対談した)、『源氏』本の中で、いちばんはっきり分かるように書いていた、エロの部分を」
と言われ、初心にかえった。
「そうだ! そんな私がダイレクトな性描写のない『源氏物語』を楽しめるのは、間接的にたくさんのエロ表現があって、でもそれは当時のセックス政治のことを思えば、単なるエロじゃなくて、政治であり、命綱であり、感情であり、物語の伏線であり、物語そのものなんだ。それを私は伝えよう」
と決意して、十月に入って原稿も直し、今は霧が晴れたように、『源氏物語』が楽しい。
来月十日、本が出る、その最終段階になって、この心境に至れて、本当に良かった。