猫も羽<わ>で数えましょう(旧「大塚ひかりのポポ手日記」since2004)

一切皆苦の人生、だましだまし生きてます。ネットでは、基本的にマイナスなこと、後ろ向きなことを書くスタンスですが、ごく稀にうっかり前向きなことを書いてしまう可能性もあります。

能は誘われないとなかなかね

maonima2008-11-03

きのうは誘われて「友枝喜久夫十三回忌追善」の能をみてきた。
船弁慶狂言の清水(野村萬と万蔵)、友枝昭世の半蔀、井上真也の道成寺と。
船弁慶も半蔀も退屈。しかし夕顔に関する能の解釈も学べたし、道成寺は人によって、またその時々でまるで違うっていうから、またぜひほかのも見たいと思った。

道成寺説話は、『今昔物語集』のタネ本となった平安中期の『大日本法華経験記』のものが私は好き。
悪業によって僧も女も毒蛇となりますよね? その僧のほうの毒蛇が道成寺の老僧の夢に現れて、
「自分は悪しき女に領ぜられてこのような浅ましい身になったので、法華経如来寿量品を書写して、我ら二匹の蛇を助けてくれ」と訴えるのだけど、最後に、
“就中に、かの悪しき女の抜苦のために、当にこの善を修すべし”
と、言うの。
この箇所が『今昔物語集』など、のちの道成寺説話にはないのだけれど、私は、僧の、女に対するこの気持ちだけで、この僧の気持ちを知っただけで、女は成仏できるわ〜といつも感じて、この段に来ると、目頭が熱くなってくる。



それにしても能は、早変わりでぱっと綺麗な装置が出てくる歌舞伎なんかと違って、学芸会?と思えるくらいチープと言っていいほど簡素な舞台装置をのろのろ運んで造るところから、見せてくれるのが前衛的というか、面白いよね。
竹竿で以て鐘を四人してえっちら担いできて、さらに別の、尖端にかぎ針のついた竹竿に、鐘を付けた綱を巻きつけて、天井のフックを起こし、そこに綱を通して、鐘を吊るすところとか。
見てて面白い。
あと、白拍子(鬼女)が鼓に促されて、ピクッと動いていくところ、あんまりためてじっとしているんで、最初、セリフでも忘れたの?と思ったんだけど、何度も道成寺みてる同行者も、
「あれは、ちょっと異常なくらい間の取り過ぎ」
と言ってたから、異例なんだろう。
おかげで、びっくりして、それまで寝てたのに、起きて見入っちゃったから、結果的には成功ね。
「う〜ん」って、ためて、腰をかがめてぷりぷり振って、タシタシ地団駄を踏むところ、真似したくなる仕草だ。
やっぱり、うんとうんとためて神やら何やらの降臨を待って、そこから一転、狂ったように、派手なピーヒャラで、舞うような、華やかな演目が私は好きね。

しかし、きのうみた能の道成寺白拍子にしても鬼女にしても、まるで「女」の部分が感じられないのは、私としてはちょっと「?」な気分。
もう少し、女の部分が出てもいいんじゃないか。
あれじゃ、もろに男の鬼だよな。
そういうものなのかもしれないけれど。



しかし年のせいなのかなんなのか、鼻とのどを冒した風邪だか炎症だかがなかなか治らないのには閉口する。ティッシュのない時代は大変だっただろうな。