『源氏物語』の「帚木」巻で、中流の女にこそ掘り出し物がいるという記述がある。たっぷりお金をかけて教育できる家に性格も容姿も大貴族顔負けのいい女がいるという……。
一時期、幕末・明治の旧華族の写真集シリーズにはまっていた。旧華族には公家・皇族系と大名系があるのだが、これが見事なまでに大名系には美女が集まっている。奥方も美女なら娘たちも美女。大名なら徳川家でも宇和島家でもそうだ。
ところが公家・皇族系は、がっかりするほどブスが多い。古都のお公家さん宮さんというと、美女が想像されるのだが、違う。
室町時代以来、宮廷公家など無いも同然の貧しさだったというが、江戸を通じてもそうだったのだろう。幕末になると、公武合体なんてことが行われるようになって事情は変わってくるが。
平安時代の美女が宮廷に集まっていたのとはエライ違いである。
美女はかくも時の権力に集中するのだ。
朝吹登水子の本なんか読んでも戦前の学習院では、旧公家系は地味だったが、旧大名系はあらゆる面で華やかだったようだ。
公家などという「名」(名誉)はあっても、財力や権力といった「実」がなければ美女は寄りつかないのだ。たまに柳原白蓮みたいな美女が公家に生まれれば、成り金のもとに嫁していくわけだし。
古都で美女が多かったのは、公家よりむしろ商家かもしれない。
女はカネに付いてくる…とはホリエモンの迷言ではあったが、長い歴史の流れで見ると、本当だろう。
美はそれだけで力である。
だから、相手にも金や権力という力がないと釣り合わないのである。