猫も羽<わ>で数えましょう(旧「大塚ひかりのポポ手日記」since2004)

一切皆苦の人生、だましだまし生きてます。ネットでは、基本的にマイナスなこと、後ろ向きなことを書くスタンスですが、ごく稀にうっかり前向きなことを書いてしまう可能性もあります。

みんなで氷川丸を見てきた。

母方祖父(と言っても1946年に死んでいるから私は会ったことがない)が日本郵船につとめていた関係で、母や祖母はその昔、上海やニューヨークで暮らしていた。
上海は母の兄が船の上で生まれそうになったというから1929年に行って、廬溝橋事件が起きたか起きそうなんだか、今となっては誰も記憶のしっかりした人が生きていないから確かなことは分からないけれど、とにかく日中関係が悪くなったんで帰国することになったと聞いているからおそらく1937年くらいまでいたのである。
ニューヨークには祖父は一足先に一人で行き、祖母ら家族は1938年はじめに横浜港を出発、日枝丸に乗ってサンフランシスコ航路で行き、あとは大陸横断鉄道でニューヨークに行った。これは甲板での記念写真が残っているから確かである。
そして1939年八月、秩父丸で帰国したのだ。これも帰りの船内での「メニュー」が残っているから確かである。帰りは観光がてらカナダに寄ったという。
ニューヨーク万博も見たとのことで、祖母はその話もしていた。
母は五歳から七歳のあいだをニューヨークで過ごしたわけで、わずかな期間ではあるが、子供時代のせいでよほど印象が強かったのか、私が古典を基準にものを言うように、母はニューヨークでの思い出を基準にものを言っているようなところがあった。
郵船の社員なので、もちろん行き帰りとも一等客室で、その食事がいかにうまかったか、毎晩、音楽会などがあって、いかに楽しかったか、船には何でもあって、散髪屋もあった等々、上海やニューヨークの話と一緒に、私は小さい頃から繰り返し聞かされて、
いつも飢餓感に近い羨ましさを覚えたものだ。また、
「日本人の代表という意識を常にもって、恥ずかしくない振る舞いをするように」
と、母は、祖父に口やかましく言われたという話もよく聞いた。



きょう見た氷川丸は大きかったが、
祖母たちが乗った秩父丸や日枝丸はもっと大きいのだと、母の姉は生前よく誇らしげに言っていた。
死んだ祖母によると、
氷川丸なんかダメ。あれはあんまり使い物にならないから残ったのよ」という話だった。