猫も羽<わ>で数えましょう(旧「大塚ひかりのポポ手日記」since2004)

一切皆苦の人生、だましだまし生きてます。ネットでは、基本的にマイナスなこと、後ろ向きなことを書くスタンスですが、ごく稀にうっかり前向きなことを書いてしまう可能性もあります。

小さいほうが支配しやすい

すごく怖いといろんな人が言ったり書いたりしている山岸凉子の『汐の声』。
一読、これはハッピーエンドではないか?と思って、怖いけど読み返したらそれは確信に。
主人公は霊に直面する前に、夢うつつの境に、
「佐和ちゃん」
と呼ぶ声を聞いている。
思うにこれが誰の声かということが大きなポイントで、
主人公はその時、
「ママの声みたい」
と思うのだけれど、のちの展開を思えばそれは明らかに霊の声であろう。
霊は、この主人公に親近感を抱いている。
ママの声かと思えるくらい、優しい猫なで声を出して、
近しく接したいと思っている。
その霊の願望は実現した。
少なくとも霊にとって、この結末はハッピーエンドだ。




母親に「子供時代」を搾取された霊は、満足に遊ぶこともなかったろう。
主人公もまた親に食い物にされる少女時代を過ごすよりは、こうして大人顔をした子供体格の霊と追いかけっこをしているほうが……と思わせるものが、この作品に出てくる「母親」の貪欲さには、ある。
霊もいつまでも母親とふたりじゃなく、
「お前はわたしだ」と思えるような、わかり合える友達がほしいだろう。
同じような境遇のふたつの霊はおっかけっこしているうちに、やがて遊び疲れて成仏する時がくるのでは。

とはいえ主人公にとっては災難には違いない。
ちゃんと生き延びたら、「もうこんな仕事は嫌だ」とママに言って、もう17歳だもの、独り立ちする未来だってあったかもしれないと思うと、一転、この漫画はずいぶん救いのない話だなとは思う。



それはともかく、この話、ディテールがほんとによく出来ていて怖い。
主人公の頼りない霊能少女が17歳にもなって「ママがもってけもってけって言うから」とお弁当を持たされたり、偏食家でママの作ったもの以外、ほとんど食べられないという設定とかがなにげに怖い。
ママがお弁当を作って、「もってけもってけ」とうるさく言う。
一見、それは母親の愛情に見えて、そうじゃない、むしろ「支配」なのだということが、よ〜く分かって怖いのだ。
アマゾンのレビューにあるような、93ページとかは、私にはさして怖くは感じられなかった。






「私がこんなに小さくて、母親より体が小さいのも、成長しない薬とか、飲まされてたのかな」
と、冗談で言うと、夫も子供も、
「なわけないじゃん。だいいち、ママの場合、小さいままにしておいて、バーバに何のメリットがあるの」
と、真顔で言うから、私も、
「いや、小さいままのほうが支配しやすいから」
とか、真剣に答えてしまう。




母親に搾取された子供時代を送った娘は、
おばさんになっても中身は子供のままだ。
つまり「おばさん顔の子供」である。
この「子供」の部分を、背の低さとピンクハウスっぽいいかにも女の子っぽい服装で表現するとすれば、
この霊は「おばさん顔の子供」をまんま絵にしただけと言える。
そして「おばさん顔の子供」はいつの時代にも、どこにでも、いる。
だから、この漫画は怖いのだ。





汐の声」と同じ1982年、そして1984年の作品も収めたやまだ紫の『しんきらり』を読むが、こっちは今読むと『源氏物語』よりも古めかしい感じがするのは、ただ単にうちんちが祖母の代からの女権一家だからかもしれない。このタイトルが絶妙にいいんだよね。




山口崇につられて、スカパーでTBSチャンネルを契約し、「肝っ玉母さん」を見たが、ここに流れる価値観というか、考え方にも同じような理由で、拒絶反応が。そういえば、「柳生十兵衛」の山口崇は好きだったのに、その後、タイムショックの司会とか見てるうちに山口熱が冷めてしまったんだった。タイムショックははっきり言って田宮二郎のほうが好きだった(古い話ですが)。
どうも私はその人自体に「惚れ込む」ってことがあんましないのかも。
峰岸徹も「風と雲と虹と」の源扶を演じてる彼が好きなのであって、ほかの徹はダメだったり。
松山ケンイチも「銭ゲバ」の前半は好きだったけど、後半はもう嫌になってたし。
崇でありさえすれば、松ケンでありさえすればいいの、ってのがない。
小説とか漫画もそう。
受け入れの度量が狭い。
だから特定の誰かの「ファンになる」ってことが、あんましないんだろうし、逆に言うと、ちょっとはまり役と思うと、すぐ「いい」って思ってしまう。
そんな私にしては山口崇はかなり例外的にはまっているほうかも。