猫も羽<わ>で数えましょう(旧「大塚ひかりのポポ手日記」since2004)

一切皆苦の人生、だましだまし生きてます。ネットでは、基本的にマイナスなこと、後ろ向きなことを書くスタンスですが、ごく稀にうっかり前向きなことを書いてしまう可能性もあります。

影亡者

きのう、なぜか、ふと思い出して、
楳図かずおの『神の左手悪魔の右手』のうち、いちばん好きな「影亡者」を読み返したのだが、マイケル・ジャクソンには影亡者みたいのが憑いていたんじゃないかなぁとも思う。
てか、彼の影亡者なら(守護霊にしても)、ぜったいみよ子の影亡者に勝つに違いないよな。
上海雑伎団を初めて見たときのような、こちらが予想もしない、そこまで行ってしまうか行けるのかという…。
何年か前、ロンドンの劇場で上海雑伎団と歌舞伎が同時公演されたとき、上海雑伎団に対してはやんやの喝采だったのに、歌舞伎に対してはもう何の反応もなく、観客はつまらなそうで、当時、ロンドンに住んでいたその人は「いたたまれなかった」というが、当たり前で、歌舞伎なんてのはもともと小さな芝居小屋で、弁当とか食べながら見るのが楽しい種類のものだろう。
マイケル・ジャクソンとか雑伎団みたいな目を奪う凄いのは、たくさんの民族と人のいる、大きな国、競争社会だからこそ出てきたんだよなぁ。
http://www.youtube.com/watch?v=HrPTDU40hO4
http://www.youtube.com/watch?v=x3PaFt5lTU8&feature=related
http://www.awfulplasticsurgery.com/2009/06/27/michael-jackson-the-plastic-surgery-years/

山岸凉子の「汐の声」も思い出す。
あと岡崎京子の「へルタースケルター」も。
だけどマイケルの肌が白くなったのは、漂白したんしゃなくて、vitiligoっていう病気なんだよね。黒人に多い。人の肌をあんなふうに漂白するのは不可能と、美容外科医もはっきり言ってるのに、テレビではいまだに「肌も漂白して」とか言ってるのは、どういうわけなんだと思う。古舘伊知郎の番組でも、肌を漂白したため、メラニン色素がなくなって、抵抗力が落ちたなんて言ってたけど。テレビってほんといい加減。
http://en.wikipedia.org/wiki/Vitiligo
http://www.youtube.com/watch?v=15TSEKXXIvI
すごく多い皮膚疾患だからこんなのもあるhttp://www.antivitiligo.com/



(追加)
母とアメリカに行ったときだから、1980年あたりか、あるいは失恋後だとしたら1987、8年かもしれないが、
アメリカのテレビのコマーシャルにマイケル・ジャクソンがよく出てきて、でも、アメリカでは一流とされるタレントはコマーシャルに出ないことになっているから(今は違うかもだが)、マイケル・ジャクソンはバカにされてるのよ、みたいなことを母から聞いて、
「変なの。商業主義の国なのに」
と思ったものだ。
日本じゃ、むしろ一流タレントがイメージのいいCMに出るって当たり前のことで、CM女王とかって、CMに出る数は人気のバロメーターとして好意的に見られているのに。
そしてそんな日本のほうが健全だなと思ったものだ。
マイケル・ジャクソンの死で、強いアメリカが終わったみたいなことを古舘伊知郎のニュース番組でさっき言ってたが、アメリカ人は今はともかく、今まではマイケル・ジャクソンが自分たちの象徴なんて聞いたら怒りだす向きが多かったんじゃないか。
アメリカはマイケル・ジャクソンのことを愛したかもしれないけれど、
最もバカにし、憎んだのもアメリカだっただろう。


でもたはから見ると、彼がアメリカの一つの象徴だってのは、否定できまい。
人はあまりに、自分の本質みたいなものをつきつけられると、憎むものなのだろう。



コピーライターの中でいちばん好きだったかも知れない眞木準も死んだ。
「十歳にして愛を知った」
ってのが好きだった。
十歳つまり小五で「愛」という漢字を習うという意味と知って、なんとも心にくいと思ったものだ。
私は昔から広告が好きで、小学生時代、ひとりで作っていた漫画誌には架空の広告も入れていた。
大学卒業後、「宣伝会議」という広告宣伝の専門誌を出す雑誌社に入った。その後、宣伝会議は左前になり、給料の遅配欠配が始まり、ほとんどの社員がやめ、つぶれ、今の宣伝会議新社には、旧宣伝会議時代の社員はひとりしかいない。私も三年足らずでやめて、河出書房新社に行って、歴史辞書の編集をしていたが、つまらなくて一月でやめ、玄光社の「コマーシャルフォト」や日経BP社の「日経エンタテインメント」などで、広告関係の取材ライターをしていたものだ。やっぱり広告が好きだったのだ。




村澤博人さんも亡くなった。村澤さんとは私の『ブス論』が出たあと、原稿依頼があって、何度かお会いしたことがある。まだ六十一歳なのに。