猫も羽<わ>で数えましょう(大塚ひかりの犬・猫・人・他)

♥️昔描いた漫画、毎週日曜更新予定♥️

昨日は『源氏物語』の担当の方が『源氏物語』が完結したお祝いをしてくれた。

ゲラを見てくださった石田百合子先生と三人で。
石田先生は75だが、頭脳もカラダもお元気で、こんなふうな感じなら年取るのもいいなと本気で思わせてくれる。
でも私は酒を飲む体力に欠けてるから、きっと無理だろうが。
石田先生の亡くなった御夫君石田穣二氏は大正生まれ。石田先生の十歳年上で、研究の鬼みたいな人だったようだ。
日常のことはあまりできず、公衆電話もかけられなくて、わざわざ電話をするために家に帰ってきたりしたそうだ。
石田先生がフランス旅行に行く時には、付いてきて、亡くなる一年前、フランスからイタリアに行く電車の中で、
「俺は無口なんだよ」
といきなり。
「分かってるわよ」
と石田先生は答えたが、
「今思うとあれが最後の愛の言葉だったのね」
と。
「俺は無口だからわざわざ言わないけど、今楽しい。俺はあんたといて楽しいよ」
ということを言いたかったんだと。
わかりにくー。
でも、そういうのも、可愛いかもしれない。






「日本では無口っていうのは褒め言葉なの。美徳なのよ。それに大正生まれくらいだとそういう人が多いの」
って石田先生はおっしゃってたが、
私の祖父は明治33年生まれだが、亡き祖母(明治36年生)や母(昭和7年生)の元気な頃の話からすると、まったく違うタイプだったと思う。
外国に憧れていて、小さい頃は牧師に英語を習い、外語大に行ったあと日本郵船に入社。
希望通り、上海やニューヨーク勤務になった。
祖母とは、妹が横須賀の女学校の同級生だった縁で知り合ったが、祖母によると「パパの一目惚れ」で、
祖母は曾祖父の「これからの女は手に職をもつべし」の方針で、明治薬専(現・明治薬科大学)で学び(その時、友達二人で下宿していた太宗寺は、昨日行った店のすぐ近くで、石田先生の生まれたのはその近所だそうだ)、薬剤師となって、病院勤めしていたが、祖父は会社帰りには病院に迎えに来て、デートしたという。
デート中も、「好き」だの「綺麗」だの、うるさいくらいだったらしい。


上海やニューヨークには祖母も付いていった。
会社がコックとお手伝いさんを雇ってくれてたから、祖母のすることは何もなく、ただパーティに付いてって、にこにこしていれば良かったが、祖父は、
「うちの妻は世界一美人」
と前もってアメリカ人に自慢していたらしく、
「おお、これが美人の奥様ですか」
みたいな感じの反応をされるので、祖母は恥ずかしかったという。
そんな祖父も1946年に46歳で死んでしまったから、私はいつも話に聞くだけだったが、こういう祖父と祖母を私はとてもかっこいいと思ってて、機会を見つけてはこうしてブログで自慢している。
祖母は当時43歳だったが、まだ幼かった息子二人・娘二人の計四人の子を育て上げ、大学までやることができたのは、「女も手に職を」との曾祖父の先見の明のおかげだった。
子供らにとって「高い学歴」は「母子家庭のハンデ」をずいぶん補ったはずだが、父親が死んだ当時、十二歳だったうちの母は、
「パパが死んだせいで、暮らしは天国から地獄になった」と言っていた。



と、書いてるうちに思い出したのだが、祖母は、病院勤めの頃、実は好きな人がいて、
「その人は無口で、パパとは正反対の人だった」
と言っていたことが今不意に頭に!!
その人は外科医で、当時最高峰と言われていた塩田外科の一番弟子ということで、病院に来る前から評判だった。
実際の彼は噂に違わず、腕もよく、精悍な顔だちと、祖母によれば「男らしい優しさをもっていた」。
祖母が食堂でご飯を食べていると、必ず祖母のほうにお盆を持ってきたそうで、あくまで祖母の話によれば、相手も祖母を憎からず思っていたようだ。
「病院のお風呂の脱衣場に私が時計を忘れた時があって。次にお風呂に入ったのがなんとその人でね。あとから時計を届けてくれたことがあったの。嬉しかったけど、死ぬほど恥ずかしかった」
 ところが強引で口達者な祖父の押しに負けて、祖母は祖父と結婚し、病院を退職した。
 祖母によれば「その人は傷心のあまり、まもなく病院をやめてチンタオに渡ってしまった」と、あとから病院の人に聞かされたそうだ。
 そのへんの真偽は分からないが、こう書くと、やっぱし祖母もほんとは無口な人が良かったのかなーうーん。