そして友達の家のクリスマスパーティにも。
皆、パリとかアメリカでの生活体験のある人たち。
でも日本でそういう体験を話すと、自慢って受け取られたりすることもあって気苦労もあるようだ。だけど、
「名古屋にいた頃は」みたいなノリで、つい「パリでは」みたいに話してしまうって聞いて納得だし、なにより、
「いろいろ違う事が多すぎて、言いたくなる」ってのにも深く納得。
小さい頃から祖母や伯母、とりわけ母が、二言目には「アメリカでは」って言ってばかりで、疎外感を覚えた私だったけれど、飛行機で行ける今ですら印象的な体験なんだから、まして1930年代、船で何週間もかけて行ったアメリカの経験は、それはそれは強烈なものだったのだな、話したくなっても無理はないと思った(上海のほうが長く暮らしてたのに)。
なにより戦後の祖父の死による生活の激変もあって、
「アメリカは良かった」ってなるのも無理はないと。
しかし、私の場合、母や祖母にはこうした異国生活体験があり、外国語も母などは当時、幼児だったのでその後も流暢なのに、その子供の私ができないというのは辛いわけだ。と改めて思った。
私と同世代の人が異国で暮らして子供は流暢な外国語を話せるというケースは今現在とても多い。しかし私のようなケースは、少なくとも私の周りでは聞いたことがない。
「子孫に行くにつれダメになっている」という、そんな「落ちぶれ感」が、私の向上心、とりわけ日本古典に対する意欲を今まで励ましてきたのだ。とつくづく自覚した。
注意すべきは、子供にあまり期待をしないようにすることだ。
今思えば母は私にずいぶん期待していた。
戦後の父親の死と、自らの結婚によって、落ちぶれた自分を、子供によって取り戻そうとしていたふしがある気がする。