新潮九月号借りて「きことわ」を、ざっとだが、読んだ。
これで、芥川賞候補、みんな目を通したという、がっくりすることが多いからふだん小説なんてほとんど読まない、芥川賞なんかも興味なかった私からは想像できないことになったのは、知り合いの小谷野さんの『母子寮前』が候補になったからだが。
読んでみて、心に残ったのは『母子寮前』と「きことわ」だった。
「きことわ」は、ネット等の情報から、夢と現の話を行き来する話と知って、「インセプション」みたいなやつなのかな、とあまり期待せずに読んでみたところ、意外にも引き込まれた。
途中からはかなり退屈して飛ばしてしまって、あっけなく終わったけれど、文章がきらきらしてるというか、いつも古典読んでて古典脳になってる私にとっては、なんか古典読んでるみたいにわりとするっと進めるというか。
祖母とか母親とか伯母とかいとことか、年長の、とくに女の親戚にあまりに言い聞かされてきたために、自分が経験したかのような感じに記憶が積み重なって、しかし当然ながら、その記憶は、事実とも違うし、祖母たちの記憶ともずれているんだろうなと、「きことわ」読んで、自分自身の記憶について考えた。
読みながら、自分ならとか、自分の場合はこうだ、とか、自分自身について考えさせられり、気づいたりさせられたのは、五作品の中で、『母子寮前』と「きことわ」だけだった。
泣けた(あと、けっこう笑える)のは『母子寮前』だけだったけど。
なぜか最後のほうのお母さんの夢のくだりと、もう一つ、タイトルにつながる語り手の心情が綴られた一行では、ぐぐっときて、やられたな、と。
ぐいぐい読めて感情を揺さぶられる、要するに面白かったのは『母子寮前』、面白いというんじゃないし、断片的な箇所においてのみなのだが、なにか心身の奥の、脳の古い箇所で、私を縛っているところまで降りていくような気がしたのは「きことわ」だった。