猫も羽<わ>で数えましょう(大塚ひかりの犬・猫・人・他)

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人の生き死になんて実は大したことじゃないのかもしれない

maonima2011-02-21

昨日は母の見舞い。



母は、「ママ、何人子供産んだの?」と聞くと、「二、三人」と言ったり、「五人」と言ったり。日によっては、孫のことまで自分が生んだと思っていたり、姪やその子供まで自分の生んだ子の数に入れているのだ。
十年以上前に死んだ母の姉もまだ生きていると思っていたり。
四十年近く藤沢に住んでいたことも忘れている。
昔のことほど覚えているのかというとそうでもなく、最近のことでも、印象深いことは覚えている。
去年、ホームから見た花火が、「ほんとに綺麗だった」とか、
ホームで連れて行ってもらった牧場の牛が「ほんとに汚くて、うんちだらけだった」「でも、そこで食べたアイスクリームの美味しいことと言ったら、今まで食べてきたアイスクリームは何だったんだろうというほどだった」とか、ほんの去年のことも覚えているのだ。



母の記憶の不思議な仕組みを見ていると、
人の生き死になんて実は大したことじゃないのかもしれないと思えてくる。
母の頭の中では、母の姉はまだ生き生きと生きているのだし、子供だって、自分が腹を痛めて生んだ子だけじゃなく、孫や姪も自分の子のような気がするのなら、それはもう自分が生んだ子供の数に入るのだろう。
源氏物語』を読んでいたって、紫式部が生きていようが死んでいようが別に関係なかったりするのと同じようなものだ。



なんて思ったのは、今日、土本亜理子さんと話していて、私は、てっきりまだ彼女のお父様である土本監督(水俣映画を撮り続けた方)が生きているつもりで話していたのだが、
「うちの父、もう死んでるよ」と言われ、実はもうお父様は亡くなっていたことを思い出したから。
でも考えてみれば、彼女のお父様の本はまだ売られ続けているのだし、亡くなったあと写真展もやっている。だから私にしてみれば、彼女のお父様は生きているも同然だったのだ。
もちろん、土本さんにとってはお父様の生き死には物凄い大きなことなんだが、やがて何年も経てば、それは大きなことではなくなって、
昨日見た花火の美しさとか、今日食べたアイスクリームのおいしさのほうが大事なことになるんだなと。


母の記憶の仕組みと思い合わせ、そんなふうに感じたのであった。
そういえば死んだ祖母も、晩年(九十歳頃)になると、自分の息子が四十代で死んでしまったこともすっかり忘れていた。
一緒に暮らす家族の生き死には人生を揺るがす重大事には違いないのだけれど。
だから明日はうんと美味しいものを食べて、うんと綺麗なものを見に行くのだ。