“衣のたてはほころびにけり”
“年を経し糸のみだれのくるしさに”
といったやり取りをした、戦いの中にもたしなみを忘れぬ、優雅な武将のイメージがあるが、この話の記される『古今著聞集』は両者が戦った前九年の役から二百年も後にできた本だ。安田元久の『源義家』によれば、「これは『大日本史』の言う通り、後世の好事家の作り話であろう」といい、私もそう思う。
ひょっとして似たようなことはあったかもしれないが、だからといって義家が優雅であったかというと、そんなことはない。
後三年の役で、義家は、「前の戦い(前九年の役)で自分を助けた清原氏の子孫を責めるとは」と罵倒(悪口<あっこう>)した敵の家来を、のちに捕らえ、歯を突き破り、舌を抜いて、木につるしたあげく、足下にその家来の主人の首を置いて、踏ませ、快哉を叫んでいる。
しかも投降した敵をも処刑。
戦いの最中は、兵糧攻めにして、女子供が城から出てくると、「食料の減りが遅くなる」という理由で、出てきた女子供を虐殺することで、女子供の逃亡を阻んだ。
結果、敵が落ちると、城になだれ込んだ兵たちは女を陣に連れ込み、慰み者にする(以上『後三年合戦絵詞』)。
まぁこれは戦の常で、だから『将門記』で、平将門が、敵の妻女を犯すなと命令を下したことが立派なこととして描かれたりするのだ。
だが時遅し、すでに妻女は兵たちによってことごとく犯されていたわけだが。
この時代の武士というのは、ほんとに調べれば調べるほど、後世の武士道のイメージとはかけ離れている。
体面のためには人殺しもするし、復讐は残虐だし、敵の女子供に対しても容赦ない。
「悪口」で怒ることについては中世ならではの理由があって、それについてはいずれまた。