猫も羽<わ>で数えましょう(旧「大塚ひかりのポポ手日記」since2004)

一切皆苦の人生、だましだまし生きてます。ネットでは、基本的にマイナスなこと、後ろ向きなことを書くスタンスですが、ごく稀にうっかり前向きなことを書いてしまう可能性もあります。

祖母のこと

祖母・康子のことは以前、はてなダイアリーのころに書いたことがあるが、1902年生まれの祖母は当時としては珍しく、薬学校に行き、薬剤師となった。

横須賀住まいだったため、受験生のころから新宿の太宗寺に下宿していた。

当時は下宿屋などもあまりなく、とくに女のための下宿屋はないので、寺に下宿することがふつうだったらしい。

東北出身の小出さんという女性と一緒だったといい、小出さんも薬剤師となって医者と結婚、息子さんは産婦人科の医者になった。

と、これはのちの話で、薬学校を卒業すると、祖母は薬剤師として病院勤めをするようになった。そこで好きな人もできたが、女学校時代の同級生の兄の長島信太郎が熱心にアプローチしてきたので、結婚。

日本郵船につとめる信太郎と共に戦前は上海、ニューヨークに住み、三子を生む。長女は日本、長男は上海、次女(私の母・幸子)は日本で生んだ。第四子の次男は、次女誕生から十二年後の一九四四年、信太郎の出征中に生まれたらしい。

戦後も信太郎は、民間から通訳としてかり出され、一九四六年、死んでしまう。

その後、祖母は乳飲み子を含む四人を薬剤師の資格を生かし、女手ひとつで育て、長女を除く三人を大学に進学させるのである。

 

 

母・幸子は、とりわけ1937年から1939年まで、五歳から七歳を過ごしたニューヨークが印象深かったらしく、私は小さいころから繰り返し、そこでの暮らしを聞かされた。

死んだ祖母の話によると、当時はまだ日本人学校などもなく、地元の子の行く幼稚園にいったあと、母はパブリックスクール99という学校に行っていた。

学校のあと、五歳年上の母の姉は住んでいたマンションの歩いてすぐ、坂を下る途中の絵の先生のところに行っていたという。

母が元気な頃、母が住んでいた所やその家のあったという所に行ったことがあるが、マンションはキューガーデンという所の、高台の公園墓地の前にあって、母によると改築されたのか、昔と向きが違う気がすると言っていた。

地図をもって、地元の役所のような所に行って、母がそこの役人にいろいろ聞いて、辿り着いたことを覚えている。

キューガーデンは今は違うが、1930年代頃は高級住宅地だったのだという。

コニーアイランドによく遊びに行ったそうだ。

夏休みは長く、宿題はなかったという。

死んだ祖母によると、アメリカで何より良いと思ったのは、生理用ナプキンがあったことと、道路が舗装されてたことだと言っていた。当時、生理用ナプキンは日本ではまだ売ってなくて、布の端切れや綿を当てていた。しかも着物のためノーパンだったりしたので、道に時々落ちていて汚かったらしい。

白人と黒人を一人ずつお手伝いとして雇っていたという(一人は料理担当)。

 

 

写真は一足先にニューヨークにいる祖父のもとに、秩父丸で行く祖母たち(祖父が社員なので一等船室の皆でこうして甲板で記念写真を撮っている)。

浮き輪を持ってる男の子のが母の兄。一つおいて右が母の姉。その右の小さい子が母。浮き輪の斜め右上の小柄な着物姿の女が祖母。

この中で今も生きているのは母だけである(87歳)

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