2013-02-19 再び、歯医者が怖い。2心に響いたことば
今回、またぞろ14年前のようになりかけ、
とはいえ、14年前と違い、この、常に警戒態勢にある小動物のような緊張感と不安感の原因が噛み合わせとかではなく、歯科でのちょっとした行き違いや不信感による心の葛藤にあると分かっているだけラクなのは確かである。
体の不調は不調として、だるくても痛くても、日々のしごとをこなす。
そうすると、いつのまにか、そちらへ心が傾き、ちゃんと出来ているのである。
こうした私の症状をずっと知っている家族や友人のちょっとしたことばが励ましになっているのも大きい。
同じ不安症仲間ともいえる人に、動物番組がいいと言われ、「ダーウィンがきた」などの動物番組を見ると、確かにいい。
手近に犬猫がいるので、億劫でも散歩するようにすると、イヤでも外出着になるから、その勢いで多くの用事も出来る。
先日、「歯科心身症」という語を検索していたら、こんな記事を見つけた。
http://www2.city.hirakata.osaka.jp/freepage/gyousei/byouin/visual/feature/oral_sinsin.php
ここの10の次の箇所である。
>症状を含め諸々の事象の完全癖的な解決への「とらわれ」から脱皮して,各々事象の部分的な寛解に足ることを知り,
>「与えられる人生」から「与える人生」への人生観の転換がなされ,
思えば今まで受け身の人生だった。
父は発達障害的なところがあり、言外のことばを読めぬ人だったから、子供心にいつもまさかと思うようなことの連続だった。
母は完璧主義的な頭のいい人で、その友人からも、子育てが過保護ではないかと言われるくらいだったが、わたし的には支配されているようにも感じていた。
「自分の意志は通用せず、いつも他人に動かされている」
という思いが、昔からずっと強かった。
その反面、強いこだわりがあるため、自分の意志が通らなかったり納得のいかないことがあると、大きなストレスを感じ、時に爆発することもあった。
歯科心身症の人は、前提として、慎重な歯医者選びが大事なことに変わりはないが、
「与えられる人生」は脱却しないと、歯医者に思わぬ箇所を「削られた」という受け身の悲劇はなくなるまい。
そして過ぎてしまったことは仕方ない。
痛くても、それは神経が生き残っている証拠と考え、我慢して、
「子供のため」
「ペットのため」
という言い訳でもいい、
とにかく、何か一番身近なもののために頑張ってみる。
それが大事なのかもしれない。