猫も羽<わ>で数えましょう(旧「大塚ひかりのポポ手日記」since2004)

一切皆苦の人生、だましだまし生きてます。ネットでは、基本的にマイナスなこと、後ろ向きなことを書くスタンスですが、ごく稀にうっかり前向きなことを書いてしまう可能性もあります。

似過ぎている

きょうの朝日新聞に、古市憲寿の『百の夜は跳ねて』が、他の小説家(木村友祐)の文芸誌に載った小説を参考にする手法に批判が集まっていると一面の目次的な箇所に古市氏の写真入りであって、なにごと? と思って記事をよく読むと、木村氏は古市氏の連絡を受けて、人の紹介をしていたり、古市氏の小説の巻末に参考文献として木村氏の小説があげられているという。ネットのインタビューでは、当の木村氏は、古市氏の小説と自分の作品は別物として、こうした批判に否定的だ。要するに、まわり(選考委員)が騒いでいるだけ、ということのようだ。参考文献に挙げられているからってこれはかなしい、盗作とは別種のいやらしさを感じる、的に。

 

わたしはこの二つの小説よんでないからともかく、参考文献に挙げられているからといってどうなのか? と思ったことはあって、それは渡辺淳一の最晩年の作品『天上紅蓮』だ。

この単行本が出る時、なぜか渡辺氏のもとより、私に「婦人公論」でこの作品を巡り、対談の申し込みがあったのである。なぜか、というのは、たぶんそのずっと前、渡辺氏の『源氏に愛された女たち』の書評をして、これは面白かったので、そんな感じに書いたら、氏よりサイン入りの本が送られてきたのだった。

そんないきさつで、私なんぞに仕事がきたのだと思う。

が、『天上紅蓮』はとくに後半から角田文衛の『待賢門院璋子の生涯』を丸写ししてるような感じで、角田氏の推測的なところまでそのまま使われていて、これじゃあ何を話せばいいのかと、困っているうち熱が出てきた私は、編集の人に相談して、「体調不良」という理由で対談をお断りしたのだった。

 

 

もちろん氏は巻末に角田氏への賛辞も挙げていたのだが、それでもこんなにほぼうつしているようなのって……と、驚いたものである。当時、角田氏は亡くなっていた。もし生きていたら……とも思ったが、ある国文学者は、「もし生きていらしたら、(小説に使われて)お喜びになったのでは」とおっしゃっていたので、研究者ってそういうものなのかな……いろんな考え方があるものだ、とも思ったのだった。

 

古市氏は同じ小説を参考にしている分、罪深いのかもだが、渡辺氏のほうは参考にしたのが小説でない分、より巧妙かもしれない。

そんなことを思い出したり、思ったのだった。

 

 

こんなブログもありました。↓

rokujoutei-a.jugem.jp

天上紅蓮 (文春文庫)

天上紅蓮 (文春文庫)

 

 

 

天上??

天上??

 

 

 

百の夜は跳ねて

百の夜は跳ねて

 

 

 木村氏の小説が載ってる号↓

文学界 2012年 10月号 [雑誌]

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