猫も羽<わ>で数えましょう(旧「大塚ひかりのポポ手日記」since2004)

一切皆苦の人生、だましだまし生きてます。ネットでは、基本的にマイナスなこと、後ろ向きなことを書くスタンスですが、ごく稀にうっかり前向きなことを書いてしまう可能性もあります。

シバありがとう

シバ、2020年7/9永眠しました。

2005(平成17)年1/26生まれなので約15歳半。

正式名・峰の小雪姫号。

 

 

 

(追記)

シバ、きのう7/9、朝起きたら死んでいました。

午後三時過ぎ、四年前、タマもお世話になったペット霊園の人にきてもらって、きょう骨になって帰って来ました。


ここのところ毎晩、シバは夜鳴きしてたから、最後の夜も弱々しく鳴いていたのに、そのまま寝てしまったことが本当に可哀想で悔やまれます。

猫のポロは気づいていたのに……。
爺猫のポロがそばで寝ていたからさびしくなかったよねと自分に言い聞かせているものの、鳴いているということは私たちを呼んでいたのではないか、と思うと、またどうしようもなく可哀想で悲しいのです。



猫のタマの時は最後まで足がしっかりとして、階段をのぼることはできなくなっても歩くこともできていたし、寝たきりになることもなく、おむつにはなっても、下の世話の必要もないまま、人に頼ることもなく、静かに息を引き取ったので、ただただ純粋に悲しいだけで、その死を受け入れるのには時間もかかったけれど、後悔の念というのはなかった。


でも、犬のシバは、違うんです。

私は猫派で、犬はもともとそんなに好きでもなかったのに、娘の一言と店に行ってペロリとなめられたのにやられて、もう3ヶ月以上に大きくなった売れ残りのシバを買いたたいて連れて来て15年以上。

熱海や那須、川場、実家、あちこち一緒にいったり、

毎日散歩していただけに、思い出が多すぎる。

 

源氏物語』で光源氏が、紫の上を失った時、人が死んで心のおさめようもないほど悲しいのは、必ずしもその人をとくべつ愛しているからとは限らない、小さいころから育ててきて、一緒に年を取ったその果てに死に別れて、我が身もその人のことも思い続けずにはいられない、その悲しさが堪えがたいのだ、思い出が広く豊かであってこそ……と言っているけれど、シバをなくした悲しさはそれに似てる。

犬は人との関わりを深く求めてきます。
シバとの思い出は、私の思い出でもあって、すべてに自分が関わっているし、何を見ても、シバが思い出されてしまうんです。