この記事がヤフーなどに転載されて、そのコメント欄にあれこれ書かれていたので、私のスタンスをはっきりさせたいと思います。
ツイッターでも書きましたけれど、
この手の本を出すと、
昔の例を今の感覚で読み解くことは無意味だという人が必ず出てくるのですが、私はそうは思いません。
四十年以上前にやられたセクハラは、セクハラということばが当時なかったからといって、何も感じなかったかといえばそんなことはありません。
metoo運動が起きて初めて、あの時私はつらかった、と声に出すことができるというケースも多々ある。
逆に今の感覚で古典や歴史を見てこそ、それらは今に生きる、今も生きていると言えるのではないでしょうか。
たとえば平安中期の『源氏物語』では、父と慕った源氏に初めて犯された時、紫の上は、
“などてかう心うかりける御心をうらなく頼もしきものに思ひきこえけむ”
と情けなく思ったと描かれている。自分を育み守ってくれるはずの親的存在に犯されることは昔も嫌なことだったということがはっきり分かります。
紫の上の周囲の人は、三日夜の餅の準備までしてもらえた紫の上を“幸ひ人”と見なした。それが当時の一般的な感覚ですが、親と慕った人に性的な目で見られた娘のつらさを、『源氏物語』は随所で書いています。
源氏の養女となって冷泉帝に入内した斎宮女御(のちの秋好中宮)も里下がりしていた折、源氏に口説かれ“いとうたて”と不快感を示している。親的存在に性的な目で見られることは昔もやはり嫌なことだったのです。
『毒親の日本史』では、時代背景も考慮した上で、そうした子の嫌さがはっきり描かれている、読み取れるケースを取り上げたつもりです。
とはいえ実在の人物で本人の気持ちが描かれているケースはまれで、状況証拠から「今で言えば」としたのも多い。
そんな中、一茶の『父の終焉日記』は親の仕打ちや自身の気持ちや対処が書かれた貴重な資料でした。
一茶は、毒親育ちにとって、今も色あせない、むしろ今こそ見直されるべきである、一つの到達点に達しています。
古典文学というのはこのように、未来のある時点になって、はじめて理解されるという側面をもつものでもあります。
そうした読みの可能性をはらんでいるからこその古典なんです。
古典文学には、現在があり、また未来をもはらんでいる、と私が思って、いろんなところで言ったり書いたりしているのは、こういうことなんです。
古典文学は実用書である、と私が常々いっているのもそういうことで、歴史や古典は生きる助けにもなる。だから古典を読むのは楽しいし、歴史を学ぶことは大事なんだろうと。
源氏に犯された時の紫の上のつらさや、養父の源氏に口説かれた時、斎宮女御(秋好中宮)の感じたうとましさを、『源氏物語』から紹介しています。↓
「河童と男色」の章で、むかしの男色に関する私の今の考えを書いています。↓