猫も羽<わ>で数えましょう(旧「大塚ひかりのポポ手日記」since2004)

一切皆苦の人生、だましだまし生きてます。ネットでは、基本的にマイナスなこと、後ろ向きなことを書くスタンスですが、ごく稀にうっかり前向きなことを書いてしまう可能性もあります。

大学院に行けなかったこと

今でも覚えているのですが、大学の入学式の時、テレビ局が来ていました。

そこで取材されて、「大学に入ったら何をしたいですか」と聞かれたので、

「勉強です。好きな古典文学の背景を学びたいので、日本史の勉強をしたいと思って入りました」

と答えたら、「思いきり遊んだりはしたくないですか」と返され、

「いえ、勉強したいです」

とさらに言ったら、つまらなそうにして行ってしまいました。

当時、女子大生ということばが流行っていて、大学に入ったら遊びたいということばを期待してのインタビューだったのです。

 

大学までは片道二時間、往復四時間かかりましたが、下宿はとんでもないとのことだったので、四年間一生懸命通いました。

入学後は、よく勉強したし、成績もとても良かったです。

とくに当時、非常勤でいらしていた黒田日出男先生の授業が面白くて、「●●は『竹取物語』にもありますよね」などと言うと、「その観点は素晴らしい」と褒めて下さったものです。

( 編纂者の恣意に凄く影響される歴史書だけでなく、絵巻物や文学を素材にするという手法を当時から取り入れていた先生の授業は、
日本紀などはただかたそばぞかし”
という『源氏物語』の一節を座右の銘としていた私にはとても共感できるものでした)

 

 

進路を決める時、早稲田の地下鉄の駅で、

「あなたは大学院に行くといい。その研究分野なら京都女子大に良い先生がいらっしゃるので、紹介します」

とおっしゃっても下さった。

 

それで、母に相談すると、

「とんでもない! 女の子が早稲田なんかに行っただけでもどうかと思うのに、大学院なんかいったら嫁のもらい手がますますなくなるし、うちはそんなお金出せません。授業料も生活費もすべて自分で出すならともかく、働いてうちにもお金を入れてもらいたいくらいなのに。京都とかは絶対にゆるさない。早稲田の院だってとんでもないのに」

と言われてしまいました。

(大学入学の際、上智、早稲田の二校で迷っていました。父がプロテスタント信者で、中高はカトリック校だったし、母が強く上智大学を勧めたからです。それで「早稲田なんか」ということばが出てきたのです。今なら日本史であれば上智じゃないだろうと思えるのですが……)

 

私もヘタレで、とてもそんなことはできないと諦め、出版社に入り、月々三万円ずつ家に入れていました。

最初の出版社は三ヶ月でやめ、次に入った広告宣伝の専門誌の出版社は凄く面白く(私は昔から広告に興味があって、自分で漫画を描いても、いつも広告も自作していました)、広告業界の人とたくさん知り合えて、それはそれは楽しかったのですが、一方では、古典文学を読んでは気になったことを書き出したり、系図を作ったりということは相変わらずしていたのです。

(通勤も二年間は往復四時間かけてしていましたが、さすがに疲れたので一人暮らしをしたらベラボーに楽だった。この時も凄く反対されましたが)

 

その会社はしかしやがて傾いて、別資本に買われ、社員は離散してしまい、私もその一人でした。

失業と失恋を経て、28で最初の本を出しました。

広告宣伝の専門誌の巻末では皆で「編集後記」を書いていたのですが、私の編集後記がとても面白いとのことで、何か書いてほしいと言われて、その当座はとくに何も書くこともなく、一度送ったものは没となって返ってきたのですが、26で失恋した時のことを書いたものが、28で本になったのです。

そのあとがきには、「古典に現代を発見したい」と書いてて、本文にも古典文学を引用するなどしました。

 

その後、結婚、子どもが生まれるまでのあいだ、相変わらず古典三昧の暮らしをして、二冊目の本も恋愛ものでと言われたのですが、今度こそ好きな古典文学をモチーフにしたいと思って書きました(『愛は引き目かぎ鼻ーー平成の平安化』)。

子どもが二歳になると、どうしても院に行きたいと思い、日本史ではなく、すでに仕事のモチーフにしていた日本文学の科目履修生になって母校の院に一年間通いましたが、まだ子どもが小さく、見てくれる人もいなかったので(保育園には行かせてたが、お迎えとか)通うだけでも大変でした。

そのうち歯科心身症になったりしながら(この時は、さすがに母が来て、子どもを見てくれたりしたものです。ただ私と一緒に精神不安定にもなっていましたが)、勉強と仕事は頑張って、『源氏物語』の全訳をした時は、三度の食事もパソコンの前でし、外出先は図書館のみ、友達の誘いも全部断わるなど、それはそれは忙しくて(それだけ充実してもいましたが)、一日中、調べ物やら執筆やらで気づけば五十を超え、今はもう還暦を超えてしまいました。

 

 

そうして思うのは、母はアメリカで育った割には、男尊女卑というか、アメリカは意外とマッチョな文化で、祖母に聞いても、1930年代当時から日本人は奥さんが財布を握っていることが多かったのに、アメリカ人は稼ぐ人……多くは夫が財布を握っているということだったし、母は昭和一桁生まれで、早くに父親を亡くして生活が激変して大変な思いをしたせいか、男というものに幻想を抱いていたんですね。

明治生まれの祖母のほうが薬剤師として四子を育てたこともあってか、リベラルでしたが(市川房枝さんが好きだったり)、しかし相続観とか根本では古い明治の人でした。

そして母は、父の顔が好きで結婚したと言っていましたが、父を下に見て威張りながらも、男に物凄く期待し、性差を意識し、

「女の子なんだから」

と二言目には言っていた。

 

 

院など出ていなくても、これだけ勉強好きで、日本史学はともかく、日本の古典文学ならひとりで読んで、図表を作ったりしていればいいんだ……と私は思っていたけれど、そもそもこんなに勉強したくて大学に入ったような私が、院に進まず、私の世代は勉強好きだったり余裕がある人でなければ院には行けなかったけれど、最近の若い人は就職がダメで院に行く人もいるそうなので、あのころの私はほんとに可哀想だったなぁと思うし、

今現在にしても、人を肩書きで判断する人間があふれていることを思うと、色々とつらい思いになることも多々あります。

 

 

愚痴ですね〜〜。

こうして書いてみても、ヘタレですね私……。

まぁ今思えば、院にいってたら、あのころの物凄い勢いのあった広告業界を間近に知ることもできず(それはもう凄かったです)、夫とも出会えなかったわけで、これはこれで良しとすべきであろうとも一方では思っています(少し負け惜しみ)。

 

 

 

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