中央大のトークイベントでも言ったのですが、令和の今、古典を読んだり歴史を学ぶ意味は、大きくわけて三つあると思っています。1エンタメ、2教訓、3自己確認です。3が私にとってはとても大事だったし、実は『源氏物語』にも物語や歴史によって自己確認しようとした人物がいます。
源氏に引き取られ婿をとらせられようとしながらセクハラを受けていた玉鬘は、「自分のような体験をした人はいるのか」と物語を読んだけど、見つけられなかった。ただ、住吉物語のヒロインが継子の差し向けた爺に犯されそうになったくだりでは、九州で大夫監に押し掛けられたことを思い出していました。
出生の秘密を知った冷泉帝は自分のような例を内外の歴史書を猛勉強して探した。結果、中国には例はあっても日本には見つからなかった。けれど本人が秘密にしている事がどうして歴史書に記されることがあろう、と思い返した。ここでは後の物語論につながる歴史書の限界が示されていると考えます。
日本紀などはただかたそばぞかし、これらにこそ道々しく詳しきことはあらめ、という。冷泉帝の話に戻ると、この自己確認の旅(内外の歴史書猛勉強)により、いったん源氏になった者が親王となり即位した例を知り、実の父である源氏に譲位してしまおうかと思いついたりします。
身体描写ファイルつけてると、まず源氏物語がそれ以前の古典文学と比較すと、いかに詳細な身体描写をしているか分かります。たとえば源氏独りをとっても、きよら→36歳で螢巻できよげ→41歳若菜上巻できよらと変化している。36歳というのは玉鬘に婿をとろうとしながらセクハラを働いている時期。悪役としての源氏が描かれるようになった頃です。41歳でまたきよらになったのは、女三の宮を正妻に迎えた頃で、宮に横恋慕する柏木の目から見ると、源氏は“きよら”と、再び第一級の美貌が描かれるのです。
『古事記』から『東海道四谷怪談』にいたるまで不細工な女が文学等でどう描かれ、どんな位置づけがされていたか分析した『ブス論』はこの身体描写ファイルから生まれました。