5月27日朝10時30分から、10分だけ、cdcラジオの北野誠のズバリサタデーに、
電話出演した。
ここのところの疲れで、口内炎がひどく、膝痛悪化。
週末は寝たり起きたりとなった。
今週は、目の手術のための大事な検査があるので、体調整えないと、やばい。
5歳上の夫の方がよほど元気で、私はぜったい彼より早死にする気がする。
私は脚もよれよれだし。
4/18から始まった誹謗中傷のスクショの整理をしていたのだが、
とにかく、ひどくて、またぞろ吐き気がしている。
まだ発売前のオビを「差別的でない言い方も今はある」と、あたかも差別的であるかのように批判しておきながら、それを引用リプしたら、「大塚さんが急に言ってきた」という発信源もひどいが(その理屈でいったら、鍵アカで発言していた人に何かをいうことも「急」ということになるのではないか)、
それ以上にひどいのは、尻馬にのって匿名で罵倒してきた有象無象。
もともとは「差別的でない言い方も今はある」というようなものが、
「差別的だ」
という論調になって、そういうのが何百とあって、吐き気がする。
北村さんとのやり取りも、あまりの失礼な言われように、見ているだけで吐き気がして、なるべく見ないようにしながら、整理をした。
にしても、見てしまうし、見えてしまうのだが、
とくに「せっぱつまりこ」という人はなんでこんなにしつこいんだろうというほど、しつこく、リツイートや引用リプも最多であった。
北村さんや高島さんの批判や、逆名という人の中傷、その他匿名者の罵詈雑言まで、いちいちリツイートしたり、賛同の引用リプをしている。
いま本が出て、この人の言ってたことは全く的外れだったこと分かったはずなのに、謝罪もない。
だんまりを決め込んでいる。
一部のひどい奴には開示請求していこうかとも思案してはいるが、こういう誠意に欠けたいい加減な連中は放っておいても自滅していくだろうとも思っている。
渦中にある時はとにかく振りかかる火の粉を払うのに無我夢中だったが、時が経って冷静になると、怒りが日々増幅していく。
はらわたが煮えくり返り、全員に土下座しろと叫んでもなおおさまらぬような気持ちがどういうものか、奴等の貧弱な知性ではは想像できまい。
ほんとう、魔女狩りみたいなあの騒ぎ、なんだったんだろう、と思うし、あいつら、何ごともなかったかのようにしているの、まじで悔しいし、折に触れ、怒り恨み憎んでいる。
ぜったいに忘れないし、ゆるさない。
なぜそんなことが断言できるのか謎。
こうした決めつけの態度で、記事を書いてるとしたら、とんでもない嘘の記事ばかりになるに違いない。
「どろあし」は輪を掛けて最低な奴だが、こんな最低な奴のまでリツイートしている。版元によれば、リツイートした人にも罪が問えるそうだ。 しかも、地方に対して差別的ってぜったい別の人と勘違いしている。それを指摘し、「どこに書いてありますか」と問うたら、私をブロックした卑怯者。
答えられないのだ。
今回のことで思い出すに、これほどの集団リンチは初めてだが、私は小学生3〜4年のころや中学に入ったばかりのころ、いじめられていたということだ。
背がとても低いのと、自己評価や自尊心が低いからだったと思う。
それは自分の名乗りにも現れている。
私は肩書きを「古典エッセイスト」にしていて、古典研究者とかにはしてこなかった。これも私の悪い癖で、そう名乗ることに対する恥ずかしさがあったのだ。
しかし考えてみれば、これほど長年にわたって、日々、古典文学を読んで、それを素材に色んな切り口を考え、図表やら何やら作り続け、成果物を発表し続けているというのは、研究以外のなにものでもなかろう。
なので、これからは古典研究家もしくは古典文学者と名乗ろうと思う。
また、版元もいつでも弁護士は紹介すると言ってくれているし、ひどい奴には、開示請求し、どんどん訴えていこうと思う。
で、本郷和人さんと対談してました。
もう今は新しい号になっているかもだけど。
帯を発端に集団リンチのようないじめにあって以来、ほんとうに神経質になっている。
渦中にある時は対応するのに必死で無我夢中なところもあったが、鎮静化してくるとホッとする反面、あれは何だったんだ、と不当な中傷うけたことに対してかえって悲しみと怒りが広がっている。
土下座しろ! と叫びたくなるような奴らがいる一方、
ありがとうを何度でも言いたいような人たちもまた得ることができたのは確かだけれど。
で、コメントしてます。
https://www.yodobashi.com/product/100000009003414805/
排他的な人って、どうしても不勉強になるよね。
アクセスする情報を自分で制限しているんだから。
自分の認めた人の本だけ読んでいたらそりゃ知識はアップデートできない。
だから、「●●て見た事ないんだよ」的なことを言う。
自分で知識を取り入れる範囲を狭めているから、見えていないのだ。
私の本の帯が出た時、ほらまた、男色礼讃だ、古典文学の都合のいいところだけ切り取っている、かつての男色が児童虐待、性虐待の側面があるといったことを指摘している人を見たことがないと言っている人がいましたが、これは、自分の不勉強を宣伝しているようなものですね。
まず、前近代の男色が児童への性虐待の側面があるということは、乃至政彦氏が丁寧に検証、主張しています。
私も、乃至氏のこの御著書の影響もあり、『本当はエロかった昔の日本』で「河童と男色」という章で言っていますし、小谷野敦さんも常々そのように指摘しています。
寺院はもちろん、院政期の男色にしても、「階級」的に上の者が下の者を犯すという側面が大きい事は古典文学を読めば、すぐ分かることです。
今度の本でも、
p32「対等の男同士が愛し合うという現代人が想像しがちな男性同性愛は、男色の中の一握りだったのです」等、書いております。
そもそも冒頭に、男色と男性同性愛の違い、BLの違いなど書いていて、一切、混同などはしておりません。
私の本を差別的であるとか、男色を美化しているなどと的外れな批判をしていた人にこそ読んでいただきたいです。
尤もそういう人は、「かつての男色が性虐待であるという指摘は見たことがない」とか書いてしまうほど不勉強な人たちですから、この本には辿り着けないかもしれませんが。
まぁ、オビや表紙だけで判断していたら無理もないですよね。
そういうところでだけで、中身を判断する。
版元が祥伝社では……と書いてた人もいましたからね。
そういう人は、グッチやらヴィトンといったブランドに弱いことを自らさらけ出しているようなものですね。
ブランドが好きなのは別に構わないのです。
ブランドは手っ取り早い判断基準ですからね。
いちいち素材や中身を吟味してられっかというような人にとってはブランドはとても良い物です。
千年前の『源氏物語』だって、物語がサブカル視されていたころに生まれたからこそ、一条天皇、藤原道長、公任といった至高の身分、最高権力者、当代一の文化人たちも読んでますよ〜と(まぁかなり回りくどい表現ではありますが……詳しくは拙著『源氏物語の教え』に書いてます)、作者は日記でアピールしたわけですから。
つまりひとり『源氏物語』という自分の作品だけでなく、「物語」というブランドの底上げをはかっていたわけです。
人間の多くは面倒くさがりだから、ブランドが好きなんですよ。
でもいやしくも研究者を名乗っていたり、ものを書いたり描いたりして発信するような人が、そういう態度というのはどうなのか。
「男色の多くが小児性愛の側面をもつことを指摘している本て見たことない」とか間違ったことを拡散するのは、いかがなものか。
まして反差別を主張しているような人がそういうのって、ほんとうに滑稽。
ブランド品好き〜〜ほしい〜〜と言ってる人のほうが、よほど爽やかで、筋が通っていますよ。
実はブランドに弱いくせに、反差別を標榜する人たち……って、言いもてゆけば、自分のことがまるで分かっていない権威主義の人たちなんですよ。