花房観音さん
『京都伏見 恋文の宿』
「光る君へ」では、独身時代の紫式部が代書屋さんをしているという設定でしたが、それを思い出しました。
どこか懐かしさを感じる本です。
血縁でも、切ったほうがいい縁があるという思いを後押ししてくれる本でもあります。
「解説」もよませます。
三浦祐之さん
『口語訳日本霊異記』
『口語訳古事記』で有名な三浦先生が、なんと今度は日本霊異記の口語訳!
まだ拾い拾いに読んでいるだけですが……いつも思うのですが、三浦先生は歌の訳がいい!
上野誠さん
『感じる万葉集』
鼻はビシビシ、ベッドはヒシ、酔っぱらいはヱラヱラ……たしかに万葉集ではそんなふうに詠まれていました! ますます万葉集が身近に感じられる一冊です。
23日のトークイベント、ひっそり記事になっていました
ぽぽちゃん、うまく喋れるか分かりませんけど、待ってますんで、みんな来て!(オンラインもあるでよ)
12/1、nhkbsで再放送です。
私も出てます。
更新されました。
これも昨日話したことなのですが、
古典文学は単独ではなく複数で読んでこそ楽しめると考えます。
『源氏物語』だけでなく『紫式部日記』『枕草子』『栄花物語』『赤染衛門集』『伊勢大輔集』『和泉式部集』等々と複数読む事で、点と点が線になり、人物が立体化していく。
有名な“此世をは”も『御堂関白記』だけでなく『小右記』があればこそ知れるし、人物が動き出す。
『御堂関白記』だけだったら「この夜私は歌を詠んだ。皆で詠唱した」という情報しかなく、歌の内容までは知れなかった。それが『小右記』を読むことで、平安貴族の栄華を語る時、必ず引き合いに出される歌を知ることができ一気に視界が開ける気がする……ということが、複数の古典文学を読んでるとあるのです。
それは必ずしも「分かった」ということではないのですが、楽しい発見がそこにある。この楽しさこそ、古典文学を読む醍醐味の一つと考えます。
中央大のトークイベントでも言ったのですが、令和の今、古典を読んだり歴史を学ぶ意味は、大きくわけて三つあると思っています。1エンタメ、2教訓、3自己確認です。3が私にとってはとても大事だったし、実は『源氏物語』にも物語や歴史によって自己確認しようとした人物がいます。
源氏に引き取られ婿をとらせられようとしながらセクハラを受けていた玉鬘は、「自分のような体験をした人はいるのか」と物語を読んだけど、見つけられなかった。ただ、住吉物語のヒロインが継子の差し向けた爺に犯されそうになったくだりでは、九州で大夫監に押し掛けられたことを思い出していました。
出生の秘密を知った冷泉帝は自分のような例を内外の歴史書を猛勉強して探した。結果、中国には例はあっても日本には見つからなかった。けれど本人が秘密にしている事がどうして歴史書に記されることがあろう、と思い返した。ここでは後の物語論につながる歴史書の限界が示されていると考えます。
日本紀などはただかたそばぞかし、これらにこそ道々しく詳しきことはあらめ、という。冷泉帝の話に戻ると、この自己確認の旅(内外の歴史書猛勉強)により、いったん源氏になった者が親王となり即位した例を知り、実の父である源氏に譲位してしまおうかと思いついたりします。
身体描写ファイルつけてると、まず源氏物語がそれ以前の古典文学と比較すと、いかに詳細な身体描写をしているか分かります。たとえば源氏独りをとっても、きよら→36歳で螢巻できよげ→41歳若菜上巻できよらと変化している。36歳というのは玉鬘に婿をとろうとしながらセクハラを働いている時期。悪役としての源氏が描かれるようになった頃です。41歳でまたきよらになったのは、女三の宮を正妻に迎えた頃で、宮に横恋慕する柏木の目から見ると、源氏は“きよら”と、再び第一級の美貌が描かれるのです。
『古事記』から『東海道四谷怪談』にいたるまで不細工な女が文学等でどう描かれ、どんな位置づけがされていたか分析した『ブス論』はこの身体描写ファイルから生まれました。