猫も羽<わ>で数えましょう(旧「大塚ひかりのポポ手日記」since2004)

一切皆苦の人生、だましだまし生きてます。ネットでは、基本的にマイナスなこと、後ろ向きなことを書くスタンスですが、ごく稀にうっかり前向きなことを書いてしまう可能性もあります。

昨日は母の見舞い。

上海は行ったことは覚えていたが、1932年生まれの母はさすがに廬溝橋事件のことは覚えていなかった。死んだ祖母(1903年生まれ)はよく話していたのだが。
その後、1939年まで、五歳から七歳を過ごしたニューヨークのことは、わずか二年ていどのことなのに今でもとてもよく覚えている。
元気な頃の母や死んだ祖母の話によると、当時はまだ日本人学校などもなく、地元の子の行くパブリックスクール99というような学校に行っていた。
学校のあと、五歳年上の母の姉は住んでいたマンションの歩いてすぐ、坂を下る途中の絵の先生のところに行っていたという。
11,2年前、母が元気な頃、母が住んでいた所やその家のあったという所に行ったことがあるが、マンションはキューガーデンという所の、高台の公園墓地の前にあって、母によると改築されたのか、昔と向きが違う気がすると言っていた。
地図をもって、地元の役所のような所に行って、母がそこの役人にいろいろ聞いて、辿り着いたことを覚えている。
キューガーデンは今は違うが、1930年代頃は高級住宅地だったのだという。
コニーアイランドによく遊びに行ったそうだ。
夏休みは長く、宿題はなかったという。
(上の写真の左から二番目が祖母。下の写真で、まん中で抱っこされてるのが母。その左隣が母の兄=伯父=71年頃42歳で死去。左端が母の姉=伯母=97年に69で死去。抱っこしてるのが祖母。右端の帽子の人が1946年に46歳で死んだ祖父)
死んだ祖母によると、アメリカで何より良いと思ったのは、生理用ナプキンがあったことと、道路が舗装されてたことだと言っていた。当時、生理用ナプキンは日本ではまだ売ってなくて、布の端切れや綿を当てていた。しかも着物のためノーパンだったりしたので、道に時々落ちていて汚かったらしい。
白人と黒人を一人ずつお手伝いとして雇っていたという(一人は料理担当)。



帰り、看護師に「昨日、入れ歯が壊れたのか、奥歯からちょっと血が出ていたので、明日、歯医者さんに相談する」と言われた時、
夫が「あーだから、歯のこと言ってたのか」とつぶやいたので、問うと、
私のトイレ中、「明日は歯医者だ」と言っていたという。
必ずしも最近のことは忘れるというわけではなく、
直近のことでも、体のこととなると、ずいぶん覚えているのだ。