に、『源氏物語』のことが書いてあると友達に教えられて、読んだ。茂木健一郎、文章にスケール感があって、言い回しがうまい。
驚いたのは、小林秀雄とか柳田国男とか、和泉式部とか『源氏物語』とか、私の馴染んできた例がたくさん載ってること。小林と柳田は全集もってるものな。小林のは読みきれなかったけど。
世代も感じる。
はたと膝を打ったのは、
79ページの「すぐれた芸術作品には、どこか、人の心を傷つけるところがある」
という一節。
そうだったのか。
1999年の「源氏研究」という雑誌に書いたことだが、私には『源氏物語』を読むのが辛くなった時期がある。
九年前、歯の噛み合わせがおかしく感じて歯医者に行った。
いくら歯を削っても悪くなる一方。
果ては歯のことばかり気になって、不眠不食の状態に。
それが歯科心身症という、精神的なストレスが歯に現れる病気であることは、歯科大学の附属病院に行って初めて知らされた。
ストレスが胃腸に出る人は多いが、それが歯に出たのだ。その頃である。『源氏物語』のとくに宇治十帖が読めなくなっていたのは。
狭い世界で、わずかな格付けに汲々として、自尊心と自己嫌悪の板挟みになって、カラダを使うことなく、人間関係のトラブルを頭の中でぐるぐるぐるぐる悩む登場人物たち。醜い人、身分の低い人、不運な人は、前世の報い、自己責任だというので同情されない。『源氏』は四世代にわたる物語だが、時代が下るにつれ、人々の質も低下。宇治十帖の薫がその権化で、不倫三昧の父光源氏(実父は別人という設定)の物語の反動のように純愛に走るも、権威主義で、好きな女とはセックスできないくせに、相手の身分が低くて、好きな女をかたどった“人形(ひとがた)”だと思うとすぐやれる。女も女で、大君のように拒食症で死んだり、六条御息所のように恋愛関係を思いつめたあげく、無意識のうちに生霊になって、ストーカーのように、男や、男の妻を苦しめる。そんな都の貴族たちがいる一方で、彼らと別の価値観をもった“遙かなる世界”と呼ばれる地方のニューリッチたちが台頭している……。
いつもなら、そこに自分を発見して、「やっぱ『源氏』って現代そのものね」と思って日常に復帰するのだが、その時ばかりはダメだった。自分過ぎて正視できなかった。
それほど『源氏』は、現実の自分に向き合うエネルギーを必要とする物語なのだ。
だからこそ、時空を超えて千年も生き残っているのだ。と、古典オタクの私は身震いしつつ、全訳に精進するのみ。
などと、たらたら書いてはみたが、そうか、『源氏物語』は、すぐれた芸術作品だから、人を傷つけるのかな。
しかし、同じように優れた芸術作品でも、『古事記』を読む時は、どんな時でも私は辛くならない。
優れた芸術作品ではも、「神話」と呼ばれるものだけは、そこに描かれた内容がどんなに残酷でも、ちょっと違うものがあるのではないか。これについては、もっと考える必要がありそうだ。<写真はタマ。首くくるつもりか>