猫も羽<わ>で数えましょう(旧「大塚ひかりのポポ手日記」since2004)

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一幡は殺されたのになぜ弟の善哉(公暁)は殺されなかったのか

大河を見てて、

「なぜ一幡は殺されたのに、弟の善哉は殺されなかったのか」

という疑問を抱いている方がいらしたのですが、一幡は比企氏腹だけど、善哉は違うということに尽きるのではないでしょうか。

源氏の外戚として権勢を握った北条氏は、比企氏腹の一幡が将軍になれば、その外戚たる比企氏に権勢が移ってしまう、それが嫌で比企能員をおびき寄せて殺し、比企氏を滅亡させたわけですから。

一方の善哉の母は、『吾妻鏡』によると、賀茂六郎重長の娘で、“辻殿”と呼ばれ、為朝の孫娘(『全譯吾妻鏡』3-305p)。

彼女は頼家の「室」(3-163p)とも書かれてますが、家格は高くても重長は早くに死んでるし、勢力はあまりなかったのでしょう。

善哉は、建永元年(1206)十月二十日、尼御台所(政子)の仰せによって、将軍実朝の“御猶子”となっている。その時、乳母の夫の三浦平六衞義村が御賜物を献じたとあります(3-129p)。

善哉の母はその後、承元四年(1210)七月八日に落飾(3-163p)。

善哉も建暦元年(1211)九月十五日、定暁僧都の室において落飾、法名公暁となります(3-176p)

 

 

この公暁は、ご存知のようにのちに実朝を暗殺することになります。

その際にもまた北条氏のあやしい動きがあるんですが、それについては大河で実朝暗殺についてやってからにしようと思います。