猫も羽<わ>で数えましょう(旧「大塚ひかりのポポ手日記」since2004)

一切皆苦の人生、だましだまし生きてます。ネットでは、基本的にマイナスなこと、後ろ向きなことを書くスタンスですが、ごく稀にうっかり前向きなことを書いてしまう可能性もあります。

maonima2008-11-21

昨日の朝日新聞に、私が載ってた。
ということを、土本亜理子さんからの、
「今日も新聞でひかりさんの笑顔を見ました」
というメールで知った。
見たら、写真も載っててびっくり。
最近、新聞・テレビも見ずに仕事してたから、知らなかったよ。
新訳の紹介の記事だから、ナビの紹介とかはないけれど、これで私の存在を知ってくれる人がいたら、ありがたいことだ。
何より知らせてくれる人がいるのが嬉しい。



清流の取材で、話してて思ったのだが、作家の人は、「作家として」いかに美しく優艶な文章にするか〜っと訳しているんだろうけれど、私は一貫して、当時もしくは当時よりちょっとあとの読者ならここはどんな気持ちで読んだろう、ここで何を感じただろう、と、
「平安中期の読者として、当時もしくは当時よりちょっとあとの読者に自分がなりきって(たつもりで)」訳し、ナビしてきたんだな、と。
当時の読者なら、小難しい漢詩の引用があれば、これはどこから引っぱったのだろうと探ってみたい気がするだろう。だからそこも押さえておきたい。
催馬楽とか雲とか身近な小道具からは、しぜんと「このあと、年増で失敗するな」「このあと女と寝るな」と合点しながら読んだろうな、と。それは現代の小説を読む時と同じだよね。だからここはさらにしつこく、当時の読者が「この作者はこういうことを言ってるんだよ」と、現代の読者に教える感じで、ナビしたい。
そんな感じで、やっているんだな、と。



物心ついた頃からからわたしは古典オタクで、『源氏物語』に限らず、古典をよめばいろいろあれこれ感じ見出すところがあり、
「『源氏物語』に至ると、なんか身体描写が詳しくなってる! 登場人物の位置づけや身分によって描き分けられているんだ」と思えば、同時代の『枕草子』『栄花物語』はもちろん、『古事記』『日本書紀』から『史記』『法華経』等、近世にいたるまでの二十以上の古典をそのテーマで何ヶ月もかけて一言一句読み返し、すべての身体描写をファイルに書き出したり、感情表現とテーマを決めればまた同じことをしたり、表や系図、建物の図や伝領図、漫画や折り紙の人形など、膨大な時間をつかって、いろんなものを作ってきたものだ。
このへん、当時の読者というより、いかにも当時よりあと、中世の読者っぽい所業だと我ながら思うが。
何もかもマニアックな読者としての行為だったんだな。
初心にかえって当時の読者になりきって(たつもりで)読むと、苦しかった『源氏』鬱からも抜け出せて、物語も「楽しめる」。
作者が「物語の語り手」としてここは何を言いたかったのか、と、考えることもより楽しくなる。
巻を追うごとに、訳もより原文の美しさ、物語が出来た当初のライブ感を伝えるものにしていきたい。




ぎざぎざしたこといらいらすることがさがさしたことを聞いたり見たりしても、一日二回の犬の散歩で、それらの濁りはゆるやかに流され、薄れ、本当に悲しむべきことだけが、心に残っていく。