猫も羽<わ>で数えましょう(旧「大塚ひかりのポポ手日記」since2004)

一切皆苦の人生、だましだまし生きてます。ネットでは、基本的にマイナスなこと、後ろ向きなことを書くスタンスですが、ごく稀にうっかり前向きなことを書いてしまう可能性もあります。

祖母、伯母、母の思い出話

祖父が日本郵船に勤めていたために、戦前、上海とNYで、祖父たちは暮らしていました。しかし、祖父が1946年に死んで、一家の運命は激変したため、この戦前の思い出が理想化されたのでしょう、母や伯母は二言目にはNYは良かったと言っていました。

明治生まれの祖母だけは、「今が一番」と言う前向きな人でしたが。

私が日本の古典文学にはまったのは、あまりにも「アメリカは良かった」と母が言ってばかりだったからというのが大きいです。

それが最大の理由です。

 

 

1939年NY。

飛行機の試乗前の写真です。中央の小さい女の子が故母。一人おいて右が故伯父。母の後ろが故伯母。左の小柄な着物女性が祖母。後列左から三番目の眼鏡が祖父。祖父は7年後、戦後処理の通訳としていったボルネオでマラリアにかかり死去。祖母は45年誕生の叔父含め四子を女手一つで育てました。

 

秩父丸。たぶん1937年の写真だろうか。これで三週間位かけて西海岸へ行き、そこから大陸横断鉄道で三泊くらいかして東海岸へ。当時、一等客船の人たちはこんなふうに記念写真を撮ったのです(帰りは日枝丸と聞いてます)

 

写真はNYにもすっかり馴染んだ祖母(右から二番目の小柄な女性)。郵船の奥様連中と一緒に。

母のアルバムを見ていると、すでに大人になっていた祖母はともかく、まだ幼かった母や

その兄姉が、戦前のこの暮らしと、戦後の母子家庭とのギャップにおかしくなったとしても、不思議はないような気はしなくはないです。