猫も羽<わ>で数えましょう(大塚ひかりの犬・猫・人・他)

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寂寥

 夢浮橋まで、原文声に出して読みながらのプレ素訳、完了。ここからまた「蜻蛉」「手習」「夢浮橋」と素訳を直し(一度に二、三巻ずつ訳しているので)、「桐壺」に立ちかえって見直す所存だが、なにはともあれ、四年前から続けてきた『源氏物語』の全訳が、ここまで辿り着いて、寂寥感が押し寄せている。
 思えば昨年五月以来、こんなに机に向かった事は人生でも初めてな日々。
 『源氏』の本は今までたくさん書いてきたが、一言一句訳すとなると、自分の勉強不足が痛感された。昔、書いた本に、小さな過ちを発見して、
「学者が重箱の隅をつつくって、こんな感じかな」
と、可笑しく思いもした。
(「細かなことをしっかり」とのU子さんの教え、しかと受け取りましたぞ。あれから一晩、考えたけれど、たしかに。「神は細部に宿り給ふ」ともいうものね3/7記)



 けれど、昔の読みはむしろ今より鋭いところも多々あって(『「源氏物語」の身体測定』とか『感情を出せない源氏の人びと』とか『カラダで感じる源氏物語』とか『源氏の男はみんなサイテー』とか、我ながら面白かった)、訳に付ける「ナビ」には、今までの成果も取り入れた。
 収穫だったのは、『源氏』に関連して、いろんな本の存在を知ったこと。
 古典オタクの私でも、日本歌学体系などに入っている歌学書などはまだ読んでいないのもたくさんあったし。類聚雑要抄指図巻を思い切って買えたのも良かった。湖月抄など、昔の注釈書もとても勉強になった。漢籍やら研究書に触れられたのもとても良かった。
 漢文は昔から好きで、史記は結婚したてのプータラしていた頃、明治書院のを全巻、読んで感激したものだが、白氏文集や玉台新詠にも進出できたのは良かった。文選は長くて大変(白氏文集もだが。史記は長くてもとにかく人物描写が面白い。ブスあり美女あり猛女あり。妻妾に身長制限をもうけた男なんてのも出て来るんだよ)。
 ブス論を書く時に読んだ仏教の経典、法華経浄土教典の類い、法苑珠林の一部や、国訳一切経に入ってる賢愚経や雑宝蔵経、六度集経や撰集百縁経、菩薩本生鬘論とかも今回、役だった。色々偉そうに並べてすんまへん(と、なぜか関西弁に)。



 また、ここ四年間、とりわけこの一年、かつてないほど『源氏』漬けになって、何十回と通読し、細かな分からぬ点を調べたが、それでも分からぬ点がたくさんあるということが分かったのも収穫だった。
 そりゃそうだ。千年前に書かれたものなんだし、紫式部の直筆本は残っていないんだからね。
 千年前ったら、もうない色だってあるし、なくなった楽器も食べ物もいっぱいある。大勢の人が調べても限界があるのは当然だ。
 それに定家がだいたい一本化したとはいえ、本によって細かな語尾が違ってる。それで意味が正反対になったりすることもあるし。
 けれど、おおもとのところで、紫式部の言いたいことは十分に伝わってくる。何を言いたいかと、私が考えたかは、全訳につけたナビで書いたから、書かないでおく。


 いまつくづく感じるのは、『源氏』はどんな主義より反体制的だし、どんなオタクよりたぶんオタク的、あらゆる思春期(反抗期)の子供より聡明にして純粋にして老獪で反抗的・懐疑的・批判的で、あらゆる革命家よりもたぶん革命的、アナーキーで、ラジカルということだ。
 だからクラシック。
 紫式部は、働く女を擁護する清少納言を罵倒するからフェミニストなわけないと思っていたが、むしろ真のフェミニストでもあるかも(私はフェミニストと思われたり、そうでないと言われたりするのだが、フェミニストってよく分からなかった。でも、真のフェミニストなんてものがもしこの世にいるとすれば、それは紫式部かなと思った。平安中期の紫式部フェミニストなんて今の概念でくくるのもなんだかなぁという思いはあるし、現代的な感覚で古典を読むのはまちがっているという人もいる。しかし、当時は「無い」概念でも、明らかに今「ある」何かに相当するということが古典にはいっぱいある。薫なんて明らかにストーカーだし。光源氏の玉鬘に対する行為もセクハラだし。空蝉は、くらたまの言う「高いブス」だし。その他色々、そうやって現代的にも読めるからこそ「古典」なのではないかしら)。
 まぁ、読めば分かるのよ。