二日目は恐山と仏ヶ浦へ行ったのですが、とにかく恐山が凄かった。
硫黄の臭いが立ちこめて、ところどころ湯煙の立つ様は箱根の地獄谷チックなのですが、恐山ならではなのはウソリ湖。
霊場をまわってここにたどり着くと、極楽に来たというか、まさにあの世に来てしまった! というくらい浮き世離れした光景なのです。
不気味で神秘的で美しい。
こんな所は二つとないのでは……。
↓あの世感満載のウソリ湖↓
奥州合戦のこととか書いてるので、取材も兼ねて青森行ってきました。
一日目は八戸の櫛引八幡。八戸からタクシーで15分ほど。
源義家の弟義光の子孫南部氏による創建と言われる格式高い神社で、国宝館には赤糸縅の鎧と白糸縅の鎧が二領。
赤糸縅のほうはとくにゴージャスで、金細工なんかが施してあり、重さ四十キロ。
長慶天皇のものと言われているそうで、アメリカの大富豪が50億円で売ってほしいと申し出たことがあるそうですが、もちろん国宝なので売れないそう。
河童伝説もあり、神社には鷹に押さえつけられたメドツ(河童)の彫刻も。遠くて見えにくかったものの、河童というより猿に見えました。
入り口の池には河童の作り物もいました(写真)。
いま、次の「変態の日本史」書くために調べごとしたり、いろいろしてて、気づいたんですが(次はババ専・ジジ専で行こうと。これらは今は変態ではないかもですが、昔は変態カテゴリーであったかと)、19の源氏と関係をもった57,8の源典侍の年収の高さですよ!
典侍は、天皇のことばを取り次ぎ、発表する内侍司の次官。超エリートです。五位以上は殿上がゆるされる当時、従四位で、当然、いいところの出の方がなる。
この従四位の年収というのが、律令ではどのくらいかというと、ここに坪井清足の『平城京再現』という本があるんですが、一九八五年時点での貨幣価値で換算すると、
「三千五百六万円」
3500万円越えです。
1985年の平均年収は400万円くらいで、今は500万円くらいだから、今の金で換算すると、4300万円以上。
まぁ、奈良時代と平安時代は違うでしょうが、だいたい四千万円くらいだったと考えていいのではないか。
4000万円の高給取りと思うと、源典侍の色好みもちょっと違った印象が出てくるのではなかろうか。
などと思いましたよ。
(ちなみに角田文衛『紫式部の世界』によると、源典侍にはモデルがいます。紫式部の兄の恋人だった人で、『源氏物語』の筆禍事件により、辞職を申し出たものの、受け取られず……当時はいったんは拒まれるのがふつう……引き続き働き続けたといいます)
★追記:上原作和さんにご指摘いただきました。これだとずいぶん低い年収になりますね。ミカドに近侍する典侍、それも内侍所の次官が一千万円以下とは私は思えないですが。↓
genjimonogatari.blog79.fc2.com
★★さらに追記(8/30)
岩波『律令』の「録令」で確認したところ、“禄”は男性と同じ、“食封”は男性の半分なので、必ずしも給料が半分というわけでもなさそうです(307,308p)。禄も時代の変遷で変化していって、大同二年(802)には典侍は従四位の官に准ぜしめた(613p)とあるので、そこそこいってたのではないかな〜と思ったり。でも、平安中期には財源不足でむしろ給料減ってたかなと思ったり。いずれにしても現代のお金に換算するのって難しそうですね。
源氏物語の教え――もし紫式部があなたの家庭教師だったら (ちくまプリマー新書)
“衣のたてはほころびにけり”
“年を経し糸のみだれのくるしさに”
といったやり取りをした、戦いの中にもたしなみを忘れぬ、優雅な武将のイメージがあるが、この話の記される『古今著聞集』は両者が戦った前九年の役から二百年も後にできた本だ。安田元久の『源義家』によれば、「これは『大日本史』の言う通り、後世の好事家の作り話であろう」といい、私もそう思う。
ひょっとして似たようなことはあったかもしれないが、だからといって義家が優雅であったかというと、そんなことはない。
後三年の役で、義家は、「前の戦い(前九年の役)で自分を助けた清原氏の子孫を責めるとは」と罵倒(悪口<あっこう>)した敵の家来を、のちに捕らえ、歯を突き破り、舌を抜いて、木につるしたあげく、足下にその家来の主人の首を置いて、踏ませ、快哉を叫んでいる。
しかも投降した敵をも処刑。
戦いの最中は、兵糧攻めにして、女子供が城から出てくると、「食料の減りが遅くなる」という理由で、出てきた女子供を虐殺することで、女子供の逃亡を阻んだ。
結果、敵が落ちると、城になだれ込んだ兵たちは女を陣に連れ込み、慰み者にする(以上『後三年合戦絵詞』)。
まぁこれは戦の常で、だから『将門記』で、平将門が、敵の妻女を犯すなと命令を下したことが立派なこととして描かれたりするのだ。
だが時遅し、すでに妻女は兵たちによってことごとく犯されていたわけだが。
この時代の武士というのは、ほんとに調べれば調べるほど、後世の武士道のイメージとはかけ離れている。
体面のためには人殺しもするし、復讐は残虐だし、敵の女子供に対しても容赦ない。
「悪口」で怒ることについては中世ならではの理由があって、それについてはいずれまた。
しかばね先生のブログ→
で知って、『しんさいニート』買って読んだ。
もともと親に傷つけられていた著者が、しんさいにあって、うつになり、仕事でも行き詰まり、死のうとまでしたのが、
出会った人、カウンセラーに助けられて、ついにはブログが本になるまでの話 (漫画)なんだけど、すごく良かった。
「おまえはできる」って自分に夜、言い聞かせる時、自分を傷つけた父親に言われている設定にしているところとか、切ない。
憎むべき親は離れるのが正解ではあるが、その時の浮き草感は半端ないものだ。
できれば誰だって親と仲良くしたい。
一瞬でも、親と心が通じたと思える時、人は地面に足がついている感覚がするものだと私は思っている。
また、ある程度、離れていると、気持ちが整理・リセットされて、親へ接した時の感覚が変化していることもあるものだ。
この本の著者の父親はすでに死んでしまっているけれど、ラストシーンは、そういう状態を象徴しているような気がする。
読んで、元気づけられる良い本だ。
あと、しかばね先生のブログも本になっていることにさっき気づいた。
朧谷寿先生から、柴犬の写真一葉と、御本をご恵贈いただきました!
ひょっとしたら、このブログをご覧になってくださったのかもしれません。
祖母・母・娘の三代の柴犬の写真で、今生き残っているのは14歳の娘柴犬のみとのことで、うちのシバ(写真。13歳七ヶ月)とほぼ年の頃も同じで親しみ感じてしまいました。
柴犬三代の写真、ここにupしたいくらいですが、人様のお犬様なので、ここはうちのシバを。
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NHKさかのぼり日本史(9) 平安 藤原氏はなぜ権力を持ち続けたのか
8/11(土)付け日経新聞で、朧谷寿先生の『藤原彰子』の書評書きました。
彰子は数えで87で死ぬまで一族のリーダーシップをとり、政界のトップに君臨していました。
そんな彰子の伝記を書き下ろしたのは、数え年80歳の著者なのですから、驚きます。
いま「波」で連載している「女系図でみる日本争乱史」で、今は将門の乱のこと書いてるので(第六回予定だから掲載はまだまだ先)、
将門の里といわれる日の出町の「肝要の里」「大久野」行ってきた。
肝要の里、というのはそういう地名なのである。
将門ゆかりのものは何もみれなかった。
「将門うどん」は食べたが、かねて聞いていた通り、こしがなかくやわらかかった。
昔は堅かったそうだ。
「小さな蔵の資料館」(これもそういう名前なのである)の人によると、山道を歩けば、将門の顎掛けの石とかあるらしい。
netで検索しても出てこないので、あまり知られていないのだろうか。
肝要の里一帯は将門の子孫が、落ち延びた所と言われているそうだ。
東京とは思えないほど涼しかった。
かねて聞いていた「つるつる温泉」は人がいっぱいで驚いたが、気持ち良かった。
写真は、中村酒造の駐車場への道で撮った。
昨日はまた三時間しか寝れなかったが、きょうはぐっすり眠れるといいな……。
九ヶ月ぶりに医科歯科いきました。
睡眠は三時間、十一時間みたいにばらばらにとったり、寝だめするのではなく、毎日一定時間寝れるようにすることが大事だと、睡眠表をもらいました。
また、マインドフルネスの練習を勧められました。
一つのレーズンがあったとして、それをレーズンではなく、未知のものと見なして、これは何だろうと臭いをかいだり、そっと触れたりするところから始まってそれだけに集中するという訓練だそうです。
それによって「今」に集中する癖をつけ、一つのことが頭から離れないということを防ぐんだそう。
で、
『マインドフルネス・レクチャー』て本を薦められました。
こないだ雑誌「ハルメク」の人に教えていただいた太田姫神社にも寄って来ました(写真)。