今日(8/2)は子供と芸大の「金比羅宮書院の美」展と、科学博物館の「インカマヤアステカ展」に行った。
金比羅宮書院の襖絵の中でもやっぱり私ら二人がひきつけられたのは、使いの者が控える「虎の間」である。
「かわいい〜〜どうみても猫じゃん。円山応挙、虎、ぜったい見たことないね〜」「ポロだよこいつ、ポロだ」などと子供は大喜び。本当にどこからどう見ても猫で、しかも脚を踏ん張っている奴はうちの猫2そっくりなのだ。
それにしても、同じ「控えの間」でも、使者の位が高くなるほど、絵のテーマも漢詩をモチーフにしたものとか、予備知識の必要な高尚なものになっていって、俗っぽい私らにはつまらなくなっていく。身分が低い者が控える間の絵のほうが、鶴とか虎とか、わかりやすいし、しかも動きもそれぞれユーモラスで、突っ込み所満載なのだ。
「やっぱし身分が低い人には、分かりやすい、身近なテーマの絵が選ばれたのかね。子供の使いもいたかもしれないし」
と私が言うと、子供は、
「うん。それもあるけど、たぶん、身分の高い使者はあんまり待たされることはなかったと思うんだ。でも身分の低い人はきっと長い間、待たされたんじゃないかな。それで襖の絵もこういう猫みたいな虎にいろんなポーズをさせて、飽きないようにしてあげたんじゃないかとうちは思うんだけど」
と言う。な〜るほど。さすがはうちの子。間違ってるかもしれないけど、心優しい解釈ではないか。帰りの電車で「寒い」と言うから「弱冷房車にしようか」と話をすると、子供が言うには、
「うち、昔、弱冷房車って人が言ってて、意味がわかんなくて、しかもどうしてもジャクレンボウシャって聞こえて、そういう妖怪だと思ってたんだ」
「ああ。塚山のことツカマヤって言ってたし、テレビのことテビリって言ってたし、冷房って聞けば亡霊って、小さい頃は思うよね。でも、そういう妖怪って?」
「いるじゃん。そういうの」
「そういえのって。ヨーレーガッサンとかかな……。どんな字、書くの?」
「弱・連・亡・者、かな。弱いのが連なって亡くなった者って書くの」
「それじゃあジャクレンモウジャだよ。寂蓮坊者とかってのはどう?」
「なんかわかんないけど、それじゃあ妖怪っぽくないんだよ」
たしかに。最近、シバと同じく反抗期で、今日も疲れたが、子供の話は面白いので、『源氏物語』の全訳もまだまだ先が長いのに、また油断して日記を書いてしまった。
★★あと、大原由軌子の『大原さんちのダンナさん このごろ少し神経症』シリーズの愛読者であるうちの子の説によると、「伊藤若冲は神経症だ」という。私もそんな気がする。(大塚ぴかり)