猫も羽<わ>で数えましょう(旧「大塚ひかりのポポ手日記」since2004)

一切皆苦の人生、だましだまし生きてます。ネットでは、基本的にマイナスなこと、後ろ向きなことを書くスタンスですが、ごく稀にうっかり前向きなことを書いてしまう可能性もあります。

失恋と失業のダブルパンチの頃、

 「コミックMOE」という雑誌があって、そのライターもしていた。あと、失業前はそこに勤めていた関係で「宣伝会議」のライターも。
 「コミックMOE」では、大林宣彦宮崎駿内田春菊などに取材し、まついなつき泉麻人に原稿を頼んだりもした。「鳩よ!」では楳図かずお、「宣伝会議」ではみうらじゅん佐藤雅彦、岡康道、新井満(本名は違った)などを取材した。
 大林監督の時は大変だった。ご自宅近くの待ち合わせの場所に行ったが三十分待っても来ないのでご自宅に連絡すると、テニスクラブでテニスをしているから、そこに来てくれという。行って待つことまた三十分。現れた監督はラケットを手にしていて、終始、明るく、最後に私に手を差し伸べてきて、固い握手をして去って行った。
 宮崎駿は悪い印象だった。当時、生意気だった私が怖い物知らずにも批判的なことを言って、怒らせてしまったのだ。辛い子供時代だったと話していたのが心に残った。
 内田春菊はまだO久保さんがマネジャーの頃で、独身だった。凄く真面目な人で、時間もきっちり守って、上がった原稿のチェックもいちばん厳しかった。
 コミックMOEの原稿料は破格に安くて、ライターながらもそれが心苦しく、書き手には必ずあらかじめ告げていたが、泉麻人は「それが何か?」という感じで快諾してくれたものだ。
 楳図さんは弾けるように元気な人で、高田馬場から吉祥寺まで歩いたりするという噂は本当かと思われた。

 実は当時、マンガのもちこみもして、二箇所行ってダメだったので諦めたのだ。その際、編集者が親切にも「ちょうど今日は漫画家の花輪和一さんが札幌に引っ越す送別会があるから」と初対面の私にそのパーティに参加することを許してくれた。
 花輪さんは丸刈りで、せんだみつおのような顔をしていると感じた。
 名刺を渡すと、絵入りのハガキをくださって、翌年二十七で、失恋の本を出すと封書で丁寧な感想を送って来てくれた。とても折り目正しい方だった。<★★★それにしても相撲界って野蛮。太らせた男をふんどし一丁で闘わせるってだけでも凄いのに(これは堀井憲一郎が言うには見せ物小屋的なものの名残らしいけど、ほんとかな)、テレビをつけるたびに17歳力士がいかにして殺されたか報道している。ちょうど昼ご飯を食べていた時だったので、辛かった。
いつから誰がそう言い出したのか知らないが、「国技」なんて言ってるけど、これは相撲界がそう称しているだけで、国が認定しているわけでも何でもないと夫が言っていた。たとえ認定していてもナンボのもんだが。偉そうにしている人や事柄ほど、その裏に隠されている悪も汚物もたっぷりなんだろうなぁ。
 
 ちなみに菅原道真の先祖は野見宿禰という力士なのは有名な話。垂仁天皇の御前で当麻蹴速と闘って蹴り殺した。天皇の死に際して召使いを殉死させる代わりに埴輪を並べることを提言した知恵者でもあった。学者と醜パワーについては『美男の立身、ブ男の逆襲』にも書いた。って、シバや猫たちと無関係なややどす黒い日記が続いてしまった。ほらね、OKU、もう書くのやめようと思いつつ、開けてるとつい書いてしまうじゃなーい!>