猫も羽<わ>で数えましょう(旧「大塚ひかりのポポ手日記」since2004)

一切皆苦の人生、だましだまし生きてます。ネットでは、基本的にマイナスなこと、後ろ向きなことを書くスタンスですが、ごく稀にうっかり前向きなことを書いてしまう可能性もあります。

内田勝さん

昔、好きだった男の部屋のベッドに座って、男を待っていたら、別の知り合いの男が入ってきた。
「この人たち、同性愛の関係だったんだ。それで合い鍵持っているのか」と驚いていると、向こうも一瞬、驚いたものの、「そーゆーことなのね」という顔で、
「あいつ、鎌倉に行ってるから」と言う。
その後も二人ほど男が入ってきて、私の待つ男はそいつらと一緒に帰ってきた。男四人で鎌倉へ行ってきたようだった。私は八時から午前一時半まで待っていたのだ。こんなに待たせるなら私も一緒に鎌倉に行きたかった。そう訴えようとしたが、
「いや、この男と私はそんなことを言える関係ではないのだ」という考えが頭に浮かんで目が覚めた。



これはまだ処女同然だった24歳の頃に現実にあった話や、その後の恋愛体験がわりとナマでミックスされてる夢だと目が覚めてから思った。


24の頃、男と食事に行って男の部屋に帰ってきたあと、男は遊びに出かけてしまった。男のベッドで待っていると、朝五時に男は帰ってきて、いきなりsexを迫ったので、
「今まで待たせといて! 穴ならなんでもいいんでしょ。ここでしなさいよ」と、ワンルームのパーテーションにぼこぼこあいていた穴を指さすと、
「穴なら何でもいいなんて、それはひどいなぁ」と言われた。この男とはなんでつきあっていたのか、今考えてもよく分からない。凄い色気があったし、あまりに口説かれたからだが、その男はわりと誰でも口説いていたのだ。「今まで100人とやった」と27歳にして言っていたから(しかしこれはどう考えても嘘としか思えない。その理由については書くと長くなるので、いずれまた)。
とんでもない奴だなと思ったし、ある時、まるで色気が感じられないのに気づいて、何度か誘いを断るうちに、電話がこなくなった。
いま思えば、私もずいぶん自分を粗末にしていたものだ。それ以来、北大(そいつの出身大学)のイメージが悪くなった。



もう一つ、二十六の頃、物凄く好きだった男の家に初めて行く時、「知らない男が、バラバラッと二、三人、出て来たらどうする?」と言われた、その時の思いが夢に現れたのだろう。もちろんそんなことはなく、この男との思い出は短期間だけど忘れ得ない。
どっちも広告業界の男だった。





それにしても月本裕が死んだとは。彼の本は『「東京時代」は、永遠です。』(1986年4月)だけしか読んでないが、当時、ブルータスの編集者で、広告業界の人たちともつきあいが深く、私もそばで見たことのある(見ただけだが)小黒一三が賛辞を寄せていて、華やかなオーラを放つ本だった。読後、
「軽快な文章だなぁ。若いのに(当時月本は26歳)物知りだな」と、単純に感心した覚えがある。それがしばらくして、銀座セゾン劇場で「不知火検校」をみたら、月本裕の名があったので、妙に懐かしかった。47で脳出血だったと新聞に出ていた。
友人の内田勝さんも、数年前、47になる寸前にくも膜下出血でなくなってしまった。平凡社からTBSに移って北大で脳の取材中、倒れたのである。それで北大の病院で死んでしまったのだ。
二十二、三からの友達で、二十六で大きな失恋をした時には、
荒俣宏さんの缶詰めで熱海に同行するから、気晴らしにおいでよ」
と誘ってくれた。男女混浴の熱海のジャングル風呂では背中を流し合った仲だが、男女の仲になることはおろか、手を握ったこともない。内田さんには生きていてほしかった。年をとるにつれ、ますますそう思う。