猫も羽<わ>で数えましょう(旧「大塚ひかりのポポ手日記」since2004)

一切皆苦の人生、だましだまし生きてます。ネットでは、基本的にマイナスなこと、後ろ向きなことを書くスタンスですが、ごく稀にうっかり前向きなことを書いてしまう可能性もあります。

以下は8/16東京新聞夕刊に書いたエッセイです。古典を読んでも介護絡みのものにばかり目がいって、書いたものなので、ここにも載せときます。
産経新聞近畿版の「古典にポッ」も毎週、やってます。600字にまとめるのが大変。
昨日は「美的」連載二回目のゲラを戻しました。
今日は書道。歩いて一分のお宅なのに、この暑さなので、外に出るのが億劫……。雪降る冬の日生まれの私はただでさえ暑さに弱いのに。冷房は苦手とはいえ、しないではいられないので、部屋の温度は30度前後に設定してます。それでも外よりは断然涼しいという……




 母が脳出血で二度倒れ、認知症・車椅子状態になった。楽しみは食べることと、新しい服を着ること、週三回、施設での若い男によるマッサージである。そんな母を見ていると、古典を読んでも、介護とか老人絡みのテーマが目についてしょうがない。
 で、気づくのは、短命と思われがちな昔の人の意外な長命さ。そして、介護を必要とする老人の置かれた厳しい状況だ。
 平安末期の『今昔物語集』巻第二十八には、八十を越す寺の長官が“強々(つよつよ)として”死にそうにないので、 七十歳の次官が、
「このままでは自分のほうが長官になれないで先に死んでしまうのでは」
と、毒キノコで長官を殺そうとする話が出てくる。 ところがこの長官、毒キノコに耐性のある体質だったという落ちで、仏教界の堕落と共に、不死身に近い長官のしぶとさと老いても衰えぬ次官の権力欲、超高齢者同士のポスト争いという、現代日本顔負けの社会事情が滑稽に描かれている。
 鎌倉時代の『沙石集』の著者無住も八十七の長命を保ち、『雑談集(ぞうたんしゅう)』という著作は八十過ぎに書いたという驚異的な人だ。それだけに介護の話も多く、『雑談集』巻第四冒頭には、
“老は八苦の随一、昔に変はりて、身苦しく、障りのみ多き中にも、人に厭ひ憎まれ、笑はれ侍り”
とあって、身体の衰え以上に、人にないがしろにされる精神的な辛さが老いの苦しさであると、高齢者ならではの実感が綴られている。
 また『沙石集』巻第四には、ある山寺の上人が“中風(ちうぶ)”、脳卒中による半身不随になって、
”弟子共も看病し疲れて、果ては打(うち)棄てつ”
介護疲れの弟子に見棄てられたという話も。結局、彼は、昔契った女が一人で生んでいた娘に救われるが、別の話に出てくる“中風(ちうぶ)”の上人は、道のほとりで物乞い同然の身となって、僧が通りかかるたび、
「早く妻を持ちなされ。妻子がいれば、こんな情けない目にはあわずに済んだろう」
と、介護目当ての結婚を勧めたという。
 介護が弟子や女の仕事とされていたことが分かるが、同じ『沙石集』には、ずっと独身だった上人が七十になって、三十歳ほどの若い尼を妻にして、ついでに介護もしてもらおうと目論んだものの、尼に浮気されたあげく、殺されそうになった話もあって、身内による介護の限界、介護にまで若い女を求める男の虫の良さが、浮き彫りになっている。
 女が男に介護される話が容易に見つからないのが気になるところではあるが、室町末期から江戸初期にかけてできた物語としては、この手の男の欲望につけこんだ『おようの尼』という笑い話もある。
 物売りのおようという尼が、一人暮らしの老僧のスケベ心を見透かして、
「夜もお寂しいでしょう。そんなお年ではお世話する方も必要でしょう」
と、若い女を紹介しようと売り込んでくる。約束の夜、おようにしこたま酒を飲まされた老僧は、入れ替わりに入って来た、顔を隠した女と同衾するが、翌朝、隣を見ると、
“七十ばかりの古尼の、顔には皺を畳み寄せ、口には生ひたる歯、一つもなし”
という老婆がいる。着物をととのえる姿を見れば、おようの尼ではないか。
「私とあなたは年も一つと違わない。私の破れ小袖等々と、お坊さんの割れ茶碗等々を合わせて使えば何の不足がありましょう」
と、割れ鍋に綴じ蓋的に終わる。
 老人・介護絡みの話題が、古典ではしばしば世を棄てたはずの尼僧の欲望と絡めて語られるのが可笑しい。出家をしても年老いても、生々しい欲望を抱えているのが人間、「生きる」ってそういうことなのかも。逆に言えば、食とか性への生々しい欲望がある限り、その人は確かに「生きているのだ」と、母の顔も一方では浮かび、かなしくも頼もしい気持ちになる。(大塚ひかり)