猫も羽<わ>で数えましょう(旧「大塚ひかりのポポ手日記」since2004)

一切皆苦の人生、だましだまし生きてます。ネットでは、基本的にマイナスなこと、後ろ向きなことを書くスタンスですが、ごく稀にうっかり前向きなことを書いてしまう可能性もあります。

霊はいるのか?

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写真は在りし日のタマ(下。2016.9/9没。16歳10ヶ月)とポロ(上。健在。17歳9ヶ月)。オス同士だけど、ポロは赤ちゃんだったので、優しいタマと仲良しになった。タマの夢は見るけど、タマの霊は見ないし、ポロも何かを見てるらしきそぶりはない。

 

 

 

さいころは幽霊はいると思ってました。見たことはないけど、耳学問で。

長じると、当然、「いない」「いるわけない」と思うようになります。

私はおばあちゃん子で、とりわけ母方祖母とは一つ敷地に住んでいたので、近しい関係でしたが、

「もし霊とかあの世があるなら、おばあちゃん、死んだら出てくるからね」

と、祖母は言っていたのに、まだ一度も出てきたことはないからです。

夢にならよく見るけれど。

 

 

そもそも死んでも霊が残るなら、そこらじゅう霊でいっぱいになるじゃないですか。

そういう疑問が誰にでもあるから、「成仏」という概念があって、この世に執着の残る人、まだ死んだことに気づかない人の霊だけが浮遊しているということになるんでしょう。

でもどう考えても、死んだら終わりでしょう。

 

 

が、ならばなぜ古今東西に霊を見た話があるのか。というと、一つには、生きてる人の脳のいたずらではないか。

母が2003年、脳出血で倒れた直後、脳の血の塊がマックスになった時、母は部屋の隅に小人が見えるとか、いろんなことを言っていた。

脳が圧迫され、視覚野に影響があって、そんなものが見えてたらしいです。

霊が見えるという人も、なんらかの脳の作用で、そうなっているんでしょう。

 

 

と、思うものの、恐山に行って、また、夫の幽霊と二年間、暮らしてたという霊能者の漫画を読んで、ちょっと揺らぎ始めてる。

加えて、きのう松原タニシの事故物件の本を読んで、ますます。

 

 

松原タニシは事故物件にばかり好んですんでいるのですが、2016年のある日、皆ととった写真で、自分だけ顔が黒くなっていた。それを見た日蓮宗の怪談坊主(怪談を話すことで有名らしい)が、

「五年後に何かありますよ。死ぬんじゃなくて、何もかも失う」

みたいなことを言ってて。根拠は同じように顔が黒く写真にうつった人が五年後だかに自死してしまったからだそうです(うろ覚え)。

 

 

こういうの読むと、なんかあるのかな〜? なんて少し思ったり。事故物件にいる霊の影響で、顔、そんなんなったのかな? と思ったり。

あと、タニシさんの本によると、事故物件になる現場というのは過去にも何かあったりするそうで、それってひょっとして、人の理性や感覚を狂わす微弱な磁気みたいのが働いてそうなっているのでは?? 脳に働きかける何かがあって、軽い脳出血みたいになって、変なものを見たり、怪奇な行動をとってしまうのでは? などという考えも浮かんでくる。

一時期、ssriパキシルのむと、発作的に飛び降り自殺する思春期の人が少なからずいるみたいなことが報道されたものですが、そういうパキシル的な脳に働きかける何かがそこにはあるとか??

 

いろいろ考えると、恐いけれど、楽しいですね。

 

ダンナさまは幽霊 (コミックエッセイの森)

ダンナさまは幽霊 (コミックエッセイの森)

 

 

 

事故物件怪談 恐い間取り

事故物件怪談 恐い間取り

 

 

 

 

「人文書のすすめ」

人文会から出てる「人文書のすすめ」に「気がつけば人文書まみれ」という原稿書きました。

人文会というのはこんな組織。↓

jinbunkai.com

書店に置いてあるんだろうと思います。

 

写真はうちの老犬猫。猫は11月に18歳になる雄。犬は来年1月14歳になる雌。

昨日は暑いのに、こんなふうに。犬のシバが猫の定位置に来たがるんですよね。猫のいない時には、勝手に一人でどーんと居座ってます。この日もむりやり割り込んできたので、猫は嫌がってて、最終的には離れて寝ました。

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「変わる」

手塚治虫の「火の鳥」で、サルタヒコって男がいたと記憶します。時代の流れとともに、サルタヒコはさまざまな姿で登場するんですが、印象的なのは鳳凰編の我王。我王は醜い上に人殺しはするわ、とんでもない悪人で、対照的にイケメンで優等生的な茜丸っていう人がいる。

ところが我王は苦しみの果て、「変わる」んです。

一方の茜丸も「変わる」。堕落してしまうんです。

もともとの位置としては、我王は茜丸のはるか下にいたのが、生きていく中で強い人に生まれ変わっていく。

「生きるって修行だなぁ」「人は変わるんだなぁ」と深く心に刻まれました。

 

 

私も自分の気持ち的には、我王に近い出発点だと思っています。

毒親に育てられ(自分も毒親だと思う)、見捨てられるのが怖くて人にすがりつき、自分で自分を守るしかないので自己中な言動もして、わたしのメンタルの弱さに、呆れて去って行った人もいる。

去らないまでも、初対面で見限られたと感じたことも少なくありません。

もともと自己評価が低いからそう感じるのかもしれないけれど、仕事でもよく打ち解けて友達が増えていく人がいる中、私は会うとがっかりされ、友達ができにくい気がしてます。

他人との距離の取り方が苦手で、自分がどんな位置にいるかぱっとつかめない。

それで初対面の人に場違いな自分語りをしたり、妙に図々しいかと思えば、遠慮し過ぎたり……私も父同様、発達障害的なところがあるんですよね。

 

 

そう思うと、悲しいけれど、でも、そんな私も「変わる」ことができるんじゃないか。

と思えることは一種の希望です。

「ありのままでいい」とよく言われるじゃないですか。

だけど、「ありのまま」じゃダメな時、「ありのまま」じゃ苦しい時もあると思うんです。

むしろ私は自分が「変わる」ことができる、自分で自分を変えることができると思うほうが、元気が出る。

 

見限られてもいい。

好かれなくてもいい。

というのは嘘で、

そりゃ、好かれたいし、一目置かれたい。

でも、それがダメなら、自分だけでも自分を好きだと思えるようになりたい。

最近、少し好きになってきたのはひょっとしていい傾向かもしれません。

↓『火の鳥』(鳳凰編)

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中世の悪口

これ、町田康さんの『ギケイキ』の書評や解説でも書いたことなんですが、中世には「悪口」の罪というのがありました。

まぁ今だって名誉毀損罪というのはあるわけですが、中世の悪口というのはもっと重罪で、ダイレクトな感じ。

『「鎌倉遺文」にみる中世のことば辞典』によると、

鎌倉時代の武士の間では、悪口から殺傷に及ぶことが多くあり、そのため『御成敗式目』では、「悪口」が罪として成文化されていた」といいます。

 

 

義経記』でも、顔にいたずら書きをされた弁慶が仕返しに“散々に悪口す”というくだりがある。

それで学頭はじめ、大騒動になり、ついには書写山が炎上、堂塔五十四所三百坊が焼失するということになります。

 

文学全集なんかの訳では「さんざんに悪口を言った」とあって、“悪口”に関する説明もない。これではなんでこんな大騒ぎになったか謎なのですが、町田康の『ギケイキ』では、弁慶がメンションを飛ばしてネットで名誉毀損的なことを拡散するという設定になっている。

今でもネットがもとで自殺に追い込まれたり、店が閉店を余儀なくされるなんて、壊滅的な打撃を受けることってありますよね。

そういうとんでもない感じが、『ギケイキ』よむと、凄く納得できるように書かれている。

一事が万事で、ほんと、『ギケイキ』オススメです。

これよむと、柳田國男が『義経記』ほど、中世の人々に親しまれていた文学はないと言った意味が分かる。

 

 

 

“悪口”が招いた殺傷事件や悲劇ということでいうと、ほかにもたくさん例がある中、印象的なのは『後三年合戦絵詞』の伝える後三年の役での出来事です。

ここで源義家は、敵方の家来に「お前の父は亡き清原武則将軍の助けでやっと安倍貞任・宗任を破ったではないか。なのに恩を忘れ、その子孫を攻め立てるとは。天道の責めを受けるぞ」と言われた。

 

これを恨みに思った義家は、合戦に勝つと、この家来を捕らえ、舌を抜く。それも口を閉じる家来の歯を突き破り、舌を抜いて、木に吊し、足元には彼の主人の首を置く。

舌を抜かれ、口もきけない家来は足をばたつかせ、必死で主人の首を踏むまいとするが、力尽きて踏んでしまう。

すると義家は、

“二年の愁眉、今日すでにひらけぬ”

と、快哉を叫ぶのです。

 

 

義家は、前九年の役で、安倍貞任と歌をかわした優雅なエピソードが『古今著聞集』で語られていて、教科書などでは武士道的な感じで紹介されていますが、『古今著聞集』のエピソードは後世の作り話という説が有力です。

武士は暴力団と同じという学者も複数いて、私もまぁそんな感じかなと。

とにかく体面をハンパなく重んじる。

だから、“悪口”も、「ことばにしたことが現実になる」という古代的な信仰だけでなく、「体面をつぶされた」という怒りを招いて、おおごとになるんだと思います。

 

『ギケイキ』

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ギケイキ: 千年の流転 (河出文庫)

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ギケイキ2: 奈落への飛翔

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「鎌倉遺文」にみる中世のことば辞典

「鎌倉遺文」にみる中世のことば辞典

 

 

焼米<やんごめ>食い食い

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冷房してても暑いっす。


きのう、俗研の友達と会って面白いことを教えてもらった。

彼女の母方の本家のある房総地方では、お盆の時にこんな歌で先祖を迎えるというのだ。

「やんごめくいくい、きさっしぇ〜

水のみのみ、きさっしぇ〜」

そう歌い、「みそはぎ」に水をつけて、火にシャッシャッと撒くというのだ。

 

 

今は分からないが、五十年くらい前にはやっていたらしい。

うちは父がキリスト教で、歌といえば、クリスマスイブ、最寄りの教会から讃美歌隊がやって来て、皆で門先で歌ったものだが、主をお迎えするという意味で、これもまた盆迎えと似たようなものがあったかもしれない。

 

要人を歌や踊りで迎えるという儀式と同じで、

盆迎えにしても讃美歌隊にしても、大切な人(先祖)や神を歌で迎えることで、歓迎の意を表しているんだろうなぁ。

もちろん鎮魂という意味もあるだろうが、基本的には「歓迎するよ」という気持ちを表しているのかなと。

 

ほかにもお盆や年末年始で面白い歌があったら知りたいものです。

奥州旅行7 日本なのに「圏外」とは

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恐山から仏ヶ浦に行くには山道いけばいいのですが、いろんな勘違いで、むつ市までわざわざ行って、そこから下風呂温泉や大間町、佐井町を通ったものだから、物凄い距離を走行することに。

この道が恐ろしかった。とにかく何もなくて、グーグルマップを見ようとしても「圏外」になり、ガラケーも「圏外」。

もし万一、何か起きても助けも呼べない恐怖がありました。

海また海で何もない。浜辺もない道が続く。たまに出てくる港はつげ義春の漫画のような雰囲気で、いま思うと、二泊三日の青森の旅でいちばん印象深かったのは、あの道だったかもしれない。

写真はそんな思いをしてたどり着いた仏ヶ浦。

奥州旅行6 ヒバ

三日目(最終日)は県立郷土館と斜陽館いって帰宅したのだが、そのあいだに、本州最北端駅の「下北」へ。しかしここで線路が途切れているわけではなく、線路はその一つ手前の大湊駅で途切れているというので、そこへ。

下北もそうだが、大湊の駅舎もとても綺麗で、大湊では、「ヒバ」の切りくずを無料で取れるようになっていた。

リュックに入れたら、ずーっとヒバの芳香がして、気分が良かったです。

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大湊駅で線路は終わってる&大湊駅にあるヒバ

 

奥州旅行5 斜陽館

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最後は五所川原の斜陽館へ。

この道のりもまた遠かった。

青森から五所川原に行くには山道が最短で、地元の人に聞いてもここしかないと言われて行ったんですが、山道苦手なので、イヤでした。

同行者は津軽海峡沿いの道よりは全然ラクと言ってましたが。

 

途中、山だけで何もありません。

それが山を降りると突如として集落が現れ、大きな館が現れるのが有名な斜陽館。

すんごい田舎のすんごい豪邸で、今のお金にすると、建築費は七億から八億だとか。

太宰治のお父さんは、当時の県の長者番付四位だったらしいです。

屋敷がすごい割には庭が狭いのが印象的でした。

 

 

 

 

 

奥州旅行4 サンスケ(青森県立郷土館)

三日目は青森県立郷土館へ。ここは良かったです。とくに「民俗」が、大学で俗研にいた私としては超絶面白かった。

良かったのはオシラ様、ボノ神、サンスケ。

サンスケというのは、山に入る時、十二人だと山の神の祟りにあう(事故にあう)ので、十三人にするため木やわらで人形を作り、連れていく、その人形のこと。↓

https://www.kyodokan.com/masterworks_detail/1/33?keyword=&pref_id=&classifyings_id=3&era_id=&age_start=&age_end=

 

山の神は一月に一人ずつ子を産み、十二人の子供がいるので、十二人だと、自分の子だと思って山に連れて行ってしまうということなのか……。

 

 

奥州旅行3 津軽海峡→仏ヶ浦

二日目は恐山から、仏ヶ浦に行ったのですが、ナビ通り行けばよかったものを、海側を通っていったため、物凄い距離を走行しました。

もちろん電車はなく、バスもほとんどないので、レンタカーで(もちろん私は運転できないので同行者が)津軽海峡をずんずん行くのですが、途中、コンビニ一つなく、場所を確認しようとグーグルマップを開いても「圏外」に。同行者のガラケーもまったくの「圏外」になって不安がつのります。

佐井港とか薬研とか、つげ義春の漫画に出てきそうでした。

 

 

で、やっとこさっとこ、仏ヶ浦に。それも車道から延々下って、ほんとうに体中汗みどろ。帰りはナビ通りの山道を行ったら半分以下の時間でした。

でも、津軽海峡は今回の旅で恐山の次に印象的だったので、まぁ良かったかも。運転者は良くないと言ってましたが。

仕事には役に立つのでは……という気が。

 

写真はやっとたどりついた仏ヶ浦。綺麗だけど、石が落ちてきそうで怖かったです。

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