猫も羽<わ>で数えましょう(大塚ひかりの犬・猫・人・他)

♥️昔描いた漫画、毎週日曜更新予定♥️

女のほうが美女に弱い

2/25のとこで言い忘れたが、僧都と妹尼、とくに妹尼が浮舟を助けようと必死になったのは、長谷観音のお告げもあるが、何より浮舟が美しいからだ。妹尼とその女房たちは、
「この人の容姿の美しさに、死なせるには惜しいと思って懸命に介護した」
と物語にはある。
それはまず、基本的に男より女のほうが女が好きで(これについてはいずれまた)、美女に弱いからだ
 
 これはphpスペシャルの連載の次の回でも書いたことだが、女は相手が美人だと思うと、ははーっとひれ伏す。女子校で長年過ごした私が言うんだから間違いない(ちなみに女子校でのブスの居心地の悪さは共学の非ではないと思う。女子校では『源氏』でいうと葵の上や六条御息所みたいな女が女王様として君臨する)。逆に自分の目から見て「容姿も才能も大したことない」と思う女が自分の目当ての男に好かれたりすると、
「なんであんな女が」と悪口を言う。女優でいえば裕木奈江がその類い。彼女はもちろん演技力も才能もあるのだが、
「男に媚びてる」
「どこがいいのか分からない」
と一時期、バッシングに遭っていた。
 これが、木村カエラとか香椎由宇みたいな、ゴージャスな美女なら、女は責めも嫉妬もしない。
 彼女たちは自分たちとは、
「身分が違う」
と思ってるから。
「自分らと同程度の身分なのに不当に甘い汁を吸ってる」
と思える対象だけを攻撃するのだ。
 しかし「なんであんな女が」と同性に疎まれがちな女も、女子だけならいじめられはしない。男子がいてこそ睨まれる。
 『源氏物語』の夕顔の例でも分かるようにこういう女は男にもてる。それは実は彼女らは「なんであんな女が」とは一概には言えない魅力を持っているからだ。謎めいていたり、少女と中年女のような両面性があったり、男に追われこそすれ、決して追ったりしない「強さ」がある。女は薄々そのことに気がついてもいて、だからこそ彼女らを自分をおびやかす存在と見なしている。香椎由宇が自分の彼を相手にするとは思えないが、裕木奈江なら彼氏をひょいととってしまうように思えるのだ。
 「女の敵」「魔性の女」は絶世の美女の中にはいない。一見何でもないような物柔らかな女の中にいる。そんな事実を、紫式部は、「こんなつまらぬ女をなぜ可愛がる」と美女六条御息所に嫉妬され取り殺されたという設定の夕顔の一生によって描き出している。同時に、こういう女が決して同性の思うような、平凡な女ではないことも。
 夕顔がその実、源氏と頭中将という当代一の貴公子から愛される魅力の持ち主だったように、裕木奈江は近年、ハリウッド映画で活躍するなど、舞台を世界に広げている(以上、奈江に関してはphpスペシャルの原稿の一部のママなので、ちょっと褒め過ぎているが文脈上)。男のほうが彼女の見た目に惑わされず、真の力を見抜いていたのだ。
 女は美しいってだけで許してくれるが、男は美しいだけでは許してくれない。性格がどうのとか、あれがどうのこれがどうのと、ややこしいことを言うのは必ず男(美だけでは許さぬという、この、女に対する男の注文の多さを余すところなく描いたのが『源氏物語』の「帚木」巻のいわゆる「雨夜の品定め」でもあるのさ)。男より女のほうが美女に弱いというのはこういうことだ。
だから女の発言権が高まってくると、官界・民間、どこでも美女が台頭して、活躍するのだ。女の活躍の場が広がったから美女の道が結婚だけじゃなくなったんだろう?っていうのは一面的で、女の活躍の場を広げたのは女で、女が女を呼び、美女を呼ぶのだ。
女は友達も仕事相手も美人がいいと思っているのだ。


話がそれた。
尼僧が美しい浮舟を必死で助けたのは、一つには仏教思想では、美醜は前世で積んだ善業悪業によるとされているからでもある。
美人ということは仏教者にとってそれだけ価値があるのだ。僧都も、
“功徳の報にこそかかる容貌にも生ひ出でたまひけめ”
と、前世の善業で美人に生まれついたのだろうと言っている。

『源氏の男はみんなサイテー』とか色んなのでも書いたけど、『源氏物語』をはじめとする平安古典では、親も美しい子はほかの子供よりも大事にしている。
浮舟が母親から過大な期待をかけられたのも、僧都や妹尼に救われたのも、その類いまれな美貌におうところが大きい。
妹尼は浮舟が美しいから助けたのだ。
そんな事実もきっちり『源氏物語』には描かれている。ということを私は全訳のナビで説明しているのだが。

では、紫式部はただ、美人は得だ、平安時代は美醜差別の時代だったということが言いたくて、こんな設定にしたのか。それも少しはあるだろうが、続きは3/3の日記をhttp://d.hatena.ne.jp/maonima/edit?date=20080303