猫も羽<わ>で数えましょう(旧「大塚ひかりのポポ手日記」since2004)

一切皆苦の人生、だましだまし生きてます。ネットでは、基本的にマイナスなこと、後ろ向きなことを書くスタンスですが、ごく稀にうっかり前向きなことを書いてしまう可能性もあります。

愛はホラーである

竹熊健太郎氏は「たけくまメモ」の「パンダとポニョ(3)」
http://takekuma.cocolog-nifty.com/blog/2008/08/post_746c.htmlの項で、
「ポニョの本質はホラー映画である」
というが、もう一つ、やはり言わずもがなで、
「その本質は愛の物語である」
というのが、あろう。
しかもこの二つは対立するわけではない。むしろ並立することでパワーアップする。
愛はホラーなのである。



源氏物語』でも、六条御息所の物の怪のくだりで、物語はぐっと深まる。



同じ醜女モノでも、「四谷怪談」が受けて、累が渕が今一つなのは、四谷怪談のお岩はもとは美女だったのが醜女に変わるというのもあるが、もともとお岩と夫の伊右衛門は、親の反対をおしきって一緒になったほどの相思相愛の仲。
しかるに愛は、相手がどんな状況になっても受け入れる力のことだ。
互いにすべてを受け入れようと誓った「愛」が基本にあって、しかし、その相手が世にも醜い姿になってしまったところに、「愛の試練」があり、愛の試練に耐え切れず、裏切ったがゆえの、夫伊右衛門へのお岩の深い怨念がある。




その意味で、
「ポニョの本性が魚でもいいですか」
というポニョの母の問いは、愛の怖さを深く意味しているし、この手の愛の試みは、古典には多々見られるものだ。
「実は男の正体は蛇だった」という三輪山神話や、皇子と契った出雲の女神の正体が蛇だったというので、皇子が逃げるといった道成寺説話式の神話、その他、異類婚姻譚は、愛の怖さを浮き彫りにしている。ポニョ母の問いは、
「この人の正体は実はとてつもなく恐ろしいものかもしれない。その正体がいつか顔を見せることがあるかもしれない。それでもあなたはこの人のすべてを受け入れられるのか」というものであって、それを受け入れることのできる「愛」とは、根っこのところで、ホラーなのである。



ポニョは、トンネルの中で、人間から奇怪な半魚人、そして金魚(人面魚)に変身するが、もしも宗介の愛がさめた時、奇怪な半漁人のポニョに耐えられるのか。
四谷怪談」の伊右衛門よろしく、
「醜くなったポニョなど愛せない」
と思ってしまったら……。
思ってしまっても、一緒に居続けねばならないとしたら、こんなに恐ろしいことはない。その時、
「あんなに愛してるって言ってくれたじゃない」
と、お岩さんのような、醜い、人ならぬ半魚人の顔でポニョが迫ってきたら……。
記・紀神話のホムチワケの神話のように、今セックスした女が大蛇の姿で、追ってきたら……。
(そういえば魚の上を走って宗介のもとに行くポニョは、道成寺説話で、男を追う竜女のようでもある)
宗介が、
「人間のポニョも好きだし、半魚人のポニョも、魚のポニョも好きだよ」
と、愛を誓うのは、だから、とんでもなく大変なことなのである。
京極夏彦の『嗤う伊右衛門』は「四谷怪談」がベースの小説だが、このあたりの愛のホラーをクリアした伊右衛門を描いていて、切ない。



実に、愛はホラーである。
その人の正体がどんなものであるかもしれず、とりこになって、遠く未来を誓い合い、一緒になる。
しかし、じっさい、相手は蛇かもしれないし、伴侶のエネルギーをすいとる吸血鬼かもしれないし、コンプレックスや憎しみの塊かもしれない、というのに。
病気や事故で醜くなったり、年老いて魔法使いのオババのようになってしまうかもしれないというのに。



だから、究極の愛の物語は、勢い、ホラーになってしまうのだ。