小谷野敦さん『日本文化論のインチキ』
「一神教と多神教を対置させて、一神教は暴力的だ、と論じたものなどもあるが、これまた杜撰」などとあって、身につまされるし、
「『昔は良かった」式の論はタチが悪い」というのは大いに共感。
最近では「月刊清流」に紹介されていて知った『高峰秀子の流儀』『最後の日本人』というのも、著者によると、「今の日本は何かがおかしい。日本人は確実に変質している。もっと言えば、劣化した」
といった、著者と同様の思いを抱く人が多いから、売れているのだろう、というけれど、戦前と比べると犯罪の減った現代日本がそんなに劣化しているとも思えないし、こういう「昔」とか「日本人」というのは、ごく特定の階級の特定の人物に過ぎなかったりするのだ。そう思った矢先だったから。
いつも「今がいちばん」と言っていた死んだ祖母を思い出す。
それはそうと、なにか自分の意見をいうために、書評を利用するのはいけないという意見を最近複数の人が書いているのを見たが、何がいけないのかなと疑問。
読書の基本て「発見」もさることながら、「共感」と「確認」が大きいものだろう。読書によって、もともとの自分の考えを確認するってことは、しぜん、自分の思いを補強するのに本を利用するってことにつながる。
これはいけないことなのかしら。
もちろん書評とかで大々的にこれをやると「つまらん自分の意見を言うために利用しただけか」と白けるから、ひとりでやるかブログででもやればいいのだろうが、どんな書評も、多かれ少なかれ自分の意見を言うために利用してるってとこはあって、斎藤美奈子のなんかそういうことが多いけれど、別にそれでいいと私は思うけど。
戦前の犯罪については『戦前の少年犯罪』とか、いろいろ本が出ていて、現代より犯罪率も凶悪度も高いという。
いろいろやるせないことは多いが、朝晩の書道(5/5から近所のお宅で習い始めた)とシバの散歩で、心身の平和が保たれている感じ。