猫も羽<わ>で数えましょう(旧「大塚ひかりのポポ手日記」since2004)

一切皆苦の人生、だましだまし生きてます。ネットでは、基本的にマイナスなこと、後ろ向きなことを書くスタンスですが、ごく稀にうっかり前向きなことを書いてしまう可能性もあります。

http://d.hatena.ne.jp/jun-jun1965/20100125
若い人はあまりオリジンを探ろうとしないのかぁ。
これはあるていどいつの時代もそうなのではという気もするけど、
源氏物語』読んでると、『史記』から『文選』から、いろんなとこから引用があって、私は古代仏典からマイナーな漢詩集から、分かる限りすべてにいちいち当たったものだから、途中、気が狂いそうになって「原典探し自体は中世の人がすでにやってるんだし」などと疑問を覚えたりしたものだが、実際に原典と言われるものを読んでみると、人の発想の傾向や、アレンジの仕方による国民性や時代性の違い、限界を垣間見ることもできた気がして、原典自体も面白いことが多いし、結果的には楽しかった。
原典違いと思われるものもあれば、オリジンにした物語が散逸して、今じゃどこからどこまでがオリジンだか分かんない箇所もあったり。

しかしたぶん当時の女の人でそうした出典を知ってる人は少なかったろうし、知らないままに感心し、楽しんでいただろう。
一方、いわゆる「インテリ」の男性貴族読者は「この著者は日本書紀とかいろんな漢文を読んでいるなぁ」などと気づいたわけだが、『源氏物語』にはそういうふうにオリジンがあるということで、かえってその評価は上がったのだ。
「新しい」ってことよりむしろ「ちゃんとした学問である漢文とかに出典があることが偉い」って。



また、最近、古代中国の志怪小説とかにはまっていろいろ読むと、古事記日本書紀のちょっと変わってるなと思ってた表現も中国古典由来だったり、『今昔物語集』も少なくない数の説話が、経典や『捜神記』だの『神仙伝』だのに原典があるとは知ってたけれど、実際そういうの熟読すると、独創的な変わった話だなぁと思ってた『今昔物語集』の話も、着想の根本的な部分は原典から借りてたりして、驚くこと多々。
でも別にそうした原典を知らなくても『今昔物語集』は面白いんだよな。
ただ書評する立場の人、専門に研究している人とかがそれら原典にまるで無頓着に、手放しで「これは新しい」みたいに褒めてるとしたらなんだかなぁ、そんなの千年前にやってるよ、無意識に踏襲してるとしたらそれはそれでまた凄いね、ってとこもあるんじゃん、くらいのことを言える知識は持っててもいいのではと……。
源氏物語』の時代の人は正確な原典は知らなくても、「そういうことは昔の人がすでにやってる」という意識が基本にあったと思うし。「昔」を取り入れてるということが、作品の評価を上げることにもなったんだよね。

http://www.youtube.com/watch?v=W0W6yh0uT2o……オリジンを探ると新しいものが生まれてくる、視界が開ける例(冒頭部分)