猫も羽<わ>で数えましょう(旧「大塚ひかりのポポ手日記」since2004)

一切皆苦の人生、だましだまし生きてます。ネットでは、基本的にマイナスなこと、後ろ向きなことを書くスタンスですが、ごく稀にうっかり前向きなことを書いてしまう可能性もあります。

ちょっとやるせナスビ(うちの子造語)な今日

maonima2008-11-12

「はじめに」やここでも言ってるように、私の目的は文学的綺羅で以て『源氏物語』を訳すことではない。
というか、そんなことは文豪の仕事であって、エッセイストの私がするようなことじゃないし、できない。
私の役割は、そういう綺羅に満ちた訳ではなくて、ダイレクトな性描写のない『源氏物語』が、気象や天体の動き、草花や流行歌なんかで、いかに性を代弁させているか、解きほぐすこと。
性愛が政治にも一族の命運にもすべてにつながっていた当時、それが分からないと物語も分からないし、楽しめないと思ったから、それをナビで現代人にも「分かる」よう示すことである。


だから訳文は、原文を“”で記したり、()で人物の通称を記したりというふうに、見た目にも作家の美しい訳とは違う体裁だ。
そこに時に訳文以上に長いナビがつく。
たとえば源氏の息子の夕霧ひとりとっても、「夕霧」という通称が生まれるのは「若菜」上下巻よりあとの「夕霧」巻の記述によってだ。
それまでは原文では彼は“若君”“冠者の君”“大学の君”“男君”“男”と「少女」巻一つとってもさまざまに呼ばれている。
これを私はいちいち活かして、たとえば“冠者の君”(夕霧)というふうに記しているのだ。
なぜかというと、“冠者の君”と呼ばれる時は「元服したての男の子」というニュアンス、
“大学の君”と呼ばれる時は「ガリ勉君」といった感じ、
“男”と呼ばれる時は女に対して性愛感情を抱く雄としての面が表れていて、
それを訳文でひとしなみに「夕霧」としてしまうと、原文の言わんとするところが伝わらないと思うからだ。



またたとえば、「明石」巻で、源氏が明石の君と契りを結ぶ直前、宴会で催馬楽の「伊勢の海」をうたう箇所が出てくる。
「伊勢の海」は“貝や拾はむや、玉や拾はむや”というような歌詞。
貝は女で、玉は男だなと、エロい脳の持ち主なら分かるかもしれないが、『源氏物語』の注釈書はそんなことはまるで教えてくれない。催馬楽の注釈書には、貝は「女性を暗示」、玉は「男性を暗示」(木村紀子『催馬楽』)と書いてあるのだが。
歌によっては『催馬楽』の注釈書でもそこまで深読みしてない場合もあるし、『源氏物語』を読むのにいちいち催馬楽の注釈書に当たるのは手間だろう。
しかし催馬楽に限らず、神楽歌でも何でも『源氏物語』ではこうしたことが多いのだ。
そしてきちんと深読みすると、『源氏物語』の筋や性が目がさめるように分かる。
現代の小説に、小道具でも歌でも、無意味に出てくることがないように、『源氏物語』も歌や花、舞ひとつとっても筋と無関係に出てくることはないのである。


さっきのところでいうと『源氏物語』の原文では“清き渚に貝や拾はむ”という一節があるだけで、これを声のいい人に源氏が歌わせ、源氏自身も拍子を取って声を添えた、とある。
これだけだと現代人には「?」であるが、当時の読者は、
「ああ、これから源氏は貝=明石の君と関係を結ぶんだな」
と予想する。
 催馬楽の一節は性的表現になっているだけでなく、物語の伏線にもなっているのだ。
 たとえば、そんなことを、分かるように書いたのが私の『源氏物語』の訳なのである。
 

いっそ、
ナビ釈『源氏物語
そんなタイトルにしてもよかったくらいかも。



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いろいろ「やるせナスビ」(マルシー娘)なことはあるけれど、とにかく、今なすべきことを、よりよくやろう。
と、我とわが身に言い聞かす。