以下、例によって趣味で書いてる古典の歯の話。
ストレス解消です。
この季節、私は毎年奥歯が痛みます。
1/10(木)朝、左目が痛いと思ったら、すぐに左上奥歯も痛くなって、1/15(火)になっても治らないので、目医者にいくとものもらい。免疫力が低下していると、かかると言われ、歯医者も行ったほうがいいとのことで、翌1/16、歯医者に電話すると、予約は一週間先。が、その翌日にも目は治り、それと共に歯の痛みも消えてしまいました。でもせっかく予約したし、何かと奥歯が痛くなるので、久しぶりに診てもらうつもりですが。
そんな折も折、次の「美的」の原稿のために上田秋成の作品をいろいろ読んでいたところ、秋成75歳の頃に書かれた『胆大小心録』にこんな話を見つけました(72話)。
ある僧が、秋成に意見す るに、
「あなたはドジョウを好んで食べているという話を聞いた。これはあなたとも思えぬこと。人は“板歯”に生まれついていて、骨を噛んで味わえる生き物ではない。馬や牛の怖そうな奴でも、人と同じ“板歯”なので草を喰らうのではないか。“牙歯”の生き物は生まれつき、ネズミのような小動物もよくものを壊して、牙を武器にして生涯を暮らすのだ。ドジョウを食べるのはやめたほうがいい」
それに対して秋成は言った。
「目医者が時々食えと言ったから食っているだけのこと。好物ではない。食べるのをやめるのは簡単だ。しかし魚肉獣肉もよく調味して食べているのであって、骨を食うわけではない。一般大衆は普通にしていることだ。神にも天子にも、よく調味して差し上げることは古代からの習い。自ら台所に入って生き物を殺すのでなければ、なんで慎む必要があるだろう」
で、僧は何も言わなくなった、と。
“板歯”ってことば、初めて知りましたが、読んで字の如く、板のような歯という意味で、前歯なんかを指します。とがった“牙歯”が肉や骨を砕くのに都合がいいのに比べ、やわらかい草をはむのに適しているから、そういうものを食べるが良いと僧は言っているのでしょう。
それに対する秋成の答えはちょっとずれている。
歯がうんぬんではなく、魚肉を食べることは一般人はもちろん、神や天子もやっていることだと答えている。僧は肉食の罪を責めているわけではないのに、です。
秋成は肉食にちょっとした罪悪感を覚えているからこんな返答になったのか、それとも僧が言外に肉食を責めるような雰囲気だったのか。
歯の話だけに、会話が噛み合わない。
秋成、年も年だから仕方ないんでしょうが、『胆大小心録』は思いこみの激しい感じの記事が目立つ気がします。