猫も羽<わ>で数えましょう(旧「大塚ひかりのポポ手日記」since2004)

一切皆苦の人生、だましだまし生きてます。ネットでは、基本的にマイナスなこと、後ろ向きなことを書くスタンスですが、ごく稀にうっかり前向きなことを書いてしまう可能性もあります。

★仕事で書くので、カナリアが日本に来たのはいつなのか調べていた。最近、清少納言が好きでたまらない。彼女は『枕草子』で、哀しいことは決して書くまいという決意をして書いたのだ。日記に書かれていた当時、女主人の定子はどん底の状態だったのに。執筆時は定子も死んでいたはずなのに。

時が経てば、私もこの日記からあまり哀しいところは削ろうと思う。けれどもまだ時が来ていないので、こないだとても哀しいことがあった時、書いた日記をまた載せてみよう。

 カナリアじやないが、ここのところ、歌う気分が失せている。
 死んだ祖母はいつも台所で、「あれ松虫が」だの「わたしのラバさん酋長の娘」だの「猫じや猫じゃとおっしゃいますが」だの「イヤだイヤだよハイカラさんはイヤだ」だの「今日もコロッケ」だの、さまざまな鼻歌をうたっていたものだ。
 私もふと気づくと、祖母が好きだったこれらの歌を口ずさんでいることが多く、子供に時々笑われてしまうのだが、最近、気づいてみたらまったく歌っていない。
 
 憂うつだからなのかというと、ちょっと違う。
 私は気分のいい時、鼻歌の出る単純な人間だが、うちの夫は、明らかにイヤな時、辛い時、不愉快な時、鼻歌をうたいながら茶碗などの洗い物をするクセがあって、「ああいま気分が滅入っているんだな」とわかるのだが、私もそういう気持ちはよく理解できる。
 鼻歌は愉快な時だけ出てくるわけではない。むしろその逆で、「♪上を向いて歩こ〜ほお〜」に歌われているような状況の時、涙の代わりに出てくることが多いものだ。夫は泣く代わりに歌っているのだ。そうして自分を励ましているのだ。
 
 
 きのう散歩の途中、何メートルかごとにわざとらしく「わっはっはっハ」と笑い声をあげてる不気味なお爺さんがいて、頭がおかしいのかとも思ったが、もしや笑いの健康法かもしれない。
 そういう意味で、夫の鼻歌などは、無意識に実践しているちょっとした心の健康法とでも言うべき気がするのだが、生きようという本能が低下すると、無意識にせよ意識的にせよ、この手の健康法をやる気が失せてくるものだ。
 私はそんな状態にあるのかしらと思ってみるのだが、生きる意欲はないことはないのだ。
 それどころか、ちゃんとある。
 眠れるし。
 仕事だって家事だってできる。
 食欲だって、少なめだけどある。
 自分を励ます気持ちだって、ある。
 なのに、ただ歌声が口をついて出てこない。


 歌を忘れたカナリアは、笑い声は出ないでしょう。
 歌を忘れたカナリアは、涙もきっと出ないでしょう。
 歌を忘れたカナリアは、ただその脚でもぢもぢと無意味な模様を砂に書くでしょう。



 なんちゃって。物書くことは恥ずかしきかな。でも、鳥ってほんとに歌えなくなる時ってあるのかしら。ウグイスはけっこう歌を練習しているらしくて、季節の初めはまだ歌がヘタクソだって、通りすがりのお婆さんが教えてくれた。